「愛媛・災害の歴史に学ぶ」28 宝永南海地震・津波と宇和島―集中する文教施設―

4月 7日 金曜日

宇和島市における江戸時代の宝永南海地震の歴史については志後野迫希世氏「近世における宇和島の大地震発生後の様子について―宇和島伊達家の宝永と安政の記録から―」(『よど』15号、2014年)で既に詳細が明らかにされています。ここでは志後野迫論文を参考にしながら、宇和島での具体的な被害を紹介します。

宇和島藩伊達家史料である『記録書抜』によると、宝永4(1707)年10月4日に「未之刻大地震、両殿様、早速御立退、鈴木仲右衛門宅江被為入、御隠居様ハ帯刀宅ニ御一宿、地震度々小地震有之」と書かれています。つまり、当時の藩主・伊達宗贇はすぐに城の南東側(海岸とは反対側で、城下でも標高が比較的高い場所)にある家老職の鈴木仲右衛門宅に避難し、御隠居の伊達宗利は同じく家老職の神尾帯刀宅(城の南東側、現在の丸の内和霊神社付近)に避難していたことがわかります。

注目すべきは『記録書抜』のそのあとの記述です。「大震之後高汐ニ而浜御屋敷汐込ニ相成、升形辺、新町、元結木(ママ)ゟ(より)持筒町佐伯町辺夥敷汐床之上ヘ四五尺、所ニより其余も汐上り」と書かれており、地震の後に「高汐」つまり津波が襲来したことが記録されているのです。「浜御屋敷」(いわゆる浜御殿。城の南側、佐伯町との間に造成された藩主の居館。現在の天赦園、伊達博物館付近)は津波で海水が入り込み、升形辺(枡形町、現在の宇和島東高校北側)あたりや、新町(城の北東側。現在の新町1、2丁目の商店街区域)や、佐伯町、持筒町(城の南側、現在の佐伯町1、2丁目)から元結掛(城下町の南側。神田川の左岸)にかけては、津波による浸水が「夥(おびただしく)」と酷かったようで、具体的に、津波は床の上から4~5尺(約120~150cm)と記され、津波高は約2mと推定することができ、場所によってはそれ以上であったことがこの記録からわかります。

この枡形町、佐伯町、元結掛は古くからの町ですが、それよりも海側は、後の時代に新田開発により土地が造成されるなどして、現在は文教地区となっており、鶴島小学校、明倫小学校、城南中学校、城東中学校、宇和島南中等教育学校、宇和島水産高校、宇和島東高校(7校で児童・生徒計3415名、教職員387名。平成28年度時点)が建っています。これらの学校の位置する場所では、宝永南海地震(南海トラフを震源とするマグニチュード8.6)規模の地震による津波が到達する場合は、2m以上の津波に襲われる可能性は高いといえます(宇和島市発行の防災マップによれば、想定津波高は4m以上となっています)。学校における防災の観点で、この地域が歴史上、津波襲来地だという災害の特徴(災害特性)を充分に理解し、児童、生徒の避難計画の策定や避難訓練を平時から行っておく必要があるといえるでしょう。

『記録書抜』には「尤椛崎辺大破、橋も落、町家中所々山際ニ野宿仕候事」ともあり、参勤交代の際の港のあった樺崎(現在の住吉公園、歴史民俗資料館あたり)は破壊され、地震の揺れもしくは津波の遡上によって川の橋が落ちたと書かれています。そこに近く、海岸や河川に面している住吉小学校、城北中学校についても津波被害の可能性が高いと言えます。このように宇和島市街地では海辺部に学校が集中し、旧市内では九島、三浦、結出、遊子、蒋淵、戸島、日振島小も同様に、南海トラフ巨大地震の際には、一般住民はもちろんのこと、いかに学校の児童、生徒を安全に避難させるのか、大きな課題になってくると言えます。