松山城を歩く-砂土手探訪-

2010年10月20日

 10月17日(日)は、特別展「伊予の城めぐり-近世城郭の誕生-」の関連講座として、愛媛県生涯学習センターの柚山俊夫先生を講師に、「松山城を歩く-砂土手探訪-」が実施されました。

  まず最初に、県立図書館の視聴覚室をお借りして、松山城の東にあり、これまであまり注目されてこなかった砂土手と念斎堀について先生の講義を受けます。砂土手と念斎堀は加藤嘉明が築いた軍事目的の施設で、大坂の陣(1615年)が終わると、その工事は中断します。この未完の砂土手、念斎堀について、江戸時代の松山城下絵図や明治の土地台帳、米軍が撮影した航空写真を駆使して、詳しく解説いただきました。また、明治の土地台帳に出現する「大手口」という小字地名、絵図に描かれた砂土手の形状などを論拠に、「加藤時代の松山城大手口は北部砂土手にあったのではないか」という仮設も提起されました。
 その後、昼食をはさんで、ロープウェイ乗り場を起点にいよいよ砂土手と念斎堀の痕跡を求めて歩き始めます。

 最初に東雲公園を歩きます。ここはかつての念斎堀だった場所で、昭和30年に埋め立てられて公園となっています。したがって、公園の土地は低く、その南側の宅地化している部分が砂土手で、少し高くなっていることが画像からも分かります。

 さらに勝山通りを越えて、東側の砂土手、堀の痕跡を探して歩きます。さらに松山東高校の西側付近まで行くと、明治の絵図にも登場する「砂溜北堀」と「砂溜南堀」と思われる水路を確認することができました。明治の絵図によると、ここから少し南に行くと、念西(斎)本堀が描かれています。
 かつて松山藩主の別荘であった石手花畑があった此花町の青少年センターまで歩き、ここから引き返します。ちなみに、石手花畑の池は、花畑廃止後は水練稽古場となっており、司馬遼太郎の『坂の上の雲』には、秋山真之が帰省中にこのお囲池で遊んだり、陸軍の兵隊とケンカしたりする場面が記されています。

 帰りにも、北持田町の松山地方気象台の前あたりで、砂土手と平地との高低差を確認しました。現在は砂土手部分はコンクリートで固められていますが、重い鎧を着けた武者が、土塁であった砂土手を乗り越えるのは困難だったことなど、補足説明を受けました。
 松山城というと、天守や整備が進む二の丸や堀之内に目が向きがちですが、市街地に残る城郭遺構に目を向けた今回の講座は、受講者にとっても目新しいものだったようです。なお、現地の城を歩く関連講座は、大洲城、能島城、宇和島城とさらに続きます。その中で私たちが知らない新しい城の姿が見えてくるかもしれません。
 最後に、今回柚山先生がお話しになった内容は、特別展示図録に「加藤嘉明時代の松山城砂土手と「大手口」」のタイトルの論考として掲載されています。