開催中!「戦国南予風雲録」-伊予の関ケ原「毛利家家臣連署書状」-

10月 27日 土曜日

 天下分け目の関ケ原合戦の際、各地の大名の領国の間で地方戦が展開されていました。伊予もそのひとつで、西軍毛利氏の軍勢が東軍加藤領へと渡り、そして南予の藤堂領へも誘いの手を伸ばしてきました。


毛利氏家臣連署書状(井原市教育委員会蔵)

 以上
雖未申通候令啓候、
其表之様子為可承
合、曽禰孫左衛門尉(景房)被差
渡候、先年公廣(西園寺)
中國(毛利)御入魂之好、
旁以此時候条、萬事
御馳走干要候、委細
孫左(曽祢景房)口上可被申候、恐々
謹言
    堅田兵部少輔
 八月十八日  元慶(花押)
    毛利大蔵太輔
        元康(花押)
 久枝又左衛門尉(興綱)殿
       御宿所

 この文書は、毛利氏から宇和郡久枝(西予市宇和町)の旧領主久枝氏に対し、毛利方(西軍)に内応し蜂起することを促した書状です。慶長5(1600)年の8月18日付けであり、まさに関ケ原前夜の風雲急を告げる状況下で出されたものです。同日付けで隣接する山田の山田氏にも、同じ内容の書状が出されていますが、原本は確認されていません。
 当時宇和郡は東軍の藤堂高虎の支配下にありました。文中3行目には、内子の旧領主で当時毛利氏を頼っていた曽祢孫左衛門尉(景房)が使者としてすでに伊予に渡って来ている様子が見え、伊予の旧領主同士の縁を利用した調略の様子がうかがえます。
 この誘いに、実際彼らがどう対応したかは不明です。しかし、「宇和旧記」には宇和の地で三瀬六兵衛なる人物が内通し、藤堂家に反旗を翻したとの記述があり、また藤堂家側の記録にもやはり内通して反乱を起こしたとあります。結果的に西軍毛利勢が南予まで進軍してくることはありませんでしたが、調略が成功して内応者を作ることができていた可能性がうかがえます。
 この文書は、こうした南予と関ケ原合戦との関連を示す数少ない原資料の一つです。2004年8月に岡山県井原市で発見され、新聞報道もされましたが、今回受取人久枝氏の旧地宇和町へ里帰りし、初めて公開されます。