イギリス軍艦が宇和島を訪れたわずか2年後の明治元(1868)年、佳姫(よしひめ)は体調をくずし、閏4月中旬には「御疲労増し不安堵の御容体」となっています。宇和島藩医が作成した「御前様御容体書」には、「血色御薄く成られ小敷御動悸短息の御気味合」とあります。また、閏4月5日に佳姫を診察した藩医渡邊玄泰は、生まれつき体が弱く、産後なので一層弱っていると記しています。佳姫は慶応3(1867)年8月と12月に流産を繰り返しており、そのことが命を縮めることになりました。佳姫の容態は一進一退が続きますが、ついに5月晦日の午後2時頃に意識を失って昏睡状態となり、6月1日に日付が変わった丑上刻(午前2時頃)に亡くなりました。わずか32年の生涯でした。
テーマ展「宇和島藩の姫君と奥女中」には、佳姫が亡くなったという知らせを受けた伊達宗城(だてむねなり)が、母親である観姫(みよひめ、宗紀の正室)に宛てた書簡を展示しています。その内容を紹介すると次のとおりです。
そのち当月朔日二日両度の別便参り候処、およしこと先月より少々不快の処、晦日よりにわかに不出来ニ付御心配いろいろ御世話も被成候間、遠江様いし(医師)とも手をつくし候得とも、その甲斐もなく朔日夜半には大切ニなり候よし、まことにおもひもよらぬ事にて何とも何ともいたいたしさおなし御心に残念にて、此ち(地)にてハねみゝ(寝耳)に水とや可申候にゆめ(夢)のこゝち(心地)のみ御座候、まつまつ深き御障も不被為存此上の御こと遠江にも強きハとふ(動)しもいたさぬよし安心仕候、此地にてハ日々御用にてとりこみ候、しらすしらす日なみもすき申候、綾せ様もさそさそと心の中おしはかり申候、遠江休息もひでハあの通の人にてあといかなるやらいろいろあん(案)じ居候、かしく
(明治元年)六月十一日
〆
御母上様 いよの守
佳姫が先月より体調を崩し、5月晦日から重体となり、藩医もいろいろ手をつくしたが、6月1日夜半に亡くなったとの報を受けて、書簡には「おもひもよらぬ事」で残念と記し、宗徳(むねえ)は激しい動揺はしていないので、安心するようにと伝えています。また、佳姫付の老女である綾瀬の心中を思いやり、今後の宗徳の奥向きのことを案じています。