「高虎と嘉明」紀行3 -宇和島城・大洲城・河後森城-

10月 23日 月曜日

高虎は、主君とした豊臣秀長を天正19(1591)年に、その養子秀保を文禄4(1595)年に相次いで亡くすと、高野山へ隠棲することを決めます。しかし、これを秀吉が引き止めたことで、高虎は一躍有力大名への道へと歩みを始めます。
文禄4年に早くも伊予宇和郡に7万石の所領をもらい、独立した大名として伊予に入部します。

高虎が居城に選んだのは板島城(後の宇和島城)で、現存する伊達家築造の天守とは異なり、自然岩盤の上に下見板張りの望楼型天守が築かれました。現在の宇和島城の石垣には、築造年代の異なる箇所が混在しており、一部には高虎時代と思われる石垣も見ることができます。

宇和島城 藤兵衛丸石垣

蔵入地が設定された喜多郡の支配には、大津城(後の大洲城)が用いられました。戦国時代から喜多郡支配の中心で、前任の小早川隆景や戸田勝隆の時代にも、拠点や居城とされていた城です。大津城と板島城、さらに今治城では、発掘調査により文様が共通する瓦が出土しており、高虎支配との関係から注目されます。

大洲城

四万十川の支流広見川沿いの土佐国境には、河後森(かごもり)城を置きました。河後森城は、宇和郡を領有する歴代大名が土佐西部の要衝・中村につながる国境の要として重視し、彼らによって石垣や瓦葺大型建造物を擁する近世城郭へと改修を施されたことが発掘により分かってきています。

河後森城

高虎は、はじめて独立した大名となった南予で、この3城を支配の拠点としました。
特別展では、高虎時代をうかがわせる江戸時代初期の宇和島城や大洲城の姿を描いた絵図や城や町の建設にまつわる文書も展示しています。
ぜひこの機会にご来場ください。

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