「高虎と嘉明」紀行5 -肥前名護屋城-

10月 27日 金曜日

佐賀県の北岸に突き出た東松浦半島、玄界灘を望むのどかな風景の中に、突如石垣に囲まれた巨大な城郭遺構が現れます。
豊臣秀吉が天下統一の後、天正20年(1592)年から開始した朝鮮出兵の拠点として、半島突端部に築いた名護屋城です。

名護屋城天守台跡


第1次朝鮮出兵(文禄の役)では、当時淡路国(滋賀県)に領地があった加藤嘉明や脇坂安治、伊予の来島村上通総、志摩国(三重県)の九鬼嘉隆、また豊臣秀長のもとで紀伊国(和歌山県)に領地を持っていた藤堂高虎たちが、船手衆として水軍を率いて参陣しました。
第2次朝鮮出兵(慶長の役)では、藤堂高虎と加藤嘉明は伊予の大名になっていました。やはり、同じ伊予の来島通総らと水軍を率いて出陣します。
特別展では、彼らへ宛てた秀吉の朱印状なども展示しています。

名護屋城の周辺には、全国から集まった大名の陣が設けられました。陣といっても石垣や屋敷を持つもので、小さな城のようでもあります。入口付近に何やら大きな丸い穴が開いた石がある所も・・・、実は旗印の幟竿を立てるための石だそうです。

嘉明の陣は、名護屋城から名護屋浦の入り江を挟んだ東向い、加部島へ通じる呼子大橋の付け根に設けられていたもので、発掘調査を経て整備されています。

加藤嘉明陣跡


肥前名護屋城跡及び周辺の陣跡では、今も発掘調査や整備が続けられています。次第に明らかになる名護屋城とその城下の姿は、名護屋城博物館で知ることができます。

慶長の役では、高虎と嘉明は戦場での互いの評価をめぐって対立、これをきっかけに確執を生むことになったといわれます。一方で、2人は慶長の役での功績を秀吉から認められ、加増されることにもなります。
しかし、秀吉に見出され、常に秀吉を支えてきた2人でしたが、この朝鮮出兵が秀吉のもとで戦った最後のいくさになりました。

2人を見出し大名へと導いた秀吉は、慶長の役の途中、慶長3(1598)年8月に亡くなります。
この後、次第に権勢を強める徳川家康とこれに対抗する石田三成らとの対立は深まり、関ヶ原合戦へと突き進むことになります。

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