「高虎と嘉明」紀行6 -関ヶ原古戦場-

10月 29日 日曜日

人は人生の中でどのくらい運命の選択をするのでしょう。高虎と嘉明、また同時代の武将にとっておそらく最大ともいえる選択が、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦での去就ではなかったでしょうか。

関ヶ原

豊臣秀吉が慶長3(1598)年に亡くなると、徳川家康が台頭、対抗する石田三成らの勢力との間で溝を深め、天下分け目の関ヶ原合戦へといたります。
この時、伊予を治める大名も双方に分かれ、徳川方に高虎と嘉明、石田方には小川祐忠・池田秀氏・来島村上康親らが味方することになります。そして、この時の選択が、その後270年にわたる長い徳川の時代における、各武将とその家の命運を左右する最大の転機となりました。
徳川についた高虎と嘉明は、伊予の石田方大名の旧領から加増され、伊予を二分して20万石ずつの大名へと成長することになります。ちなみに、この時2人は互いの領国支配について当事者同士で取り決めを結んでおり、特別展ではこの領知協定書写を展示しています。

関ヶ原は、美濃国(岐阜県)と近江国(滋賀県)の国境近くにあり、古くは不破関が置かれるなど街道の要衝とされ、江戸時代には中仙道の関ヶ原宿が置かれていた場所です。現在も、交通の要衝らしく、JR東海道本線、東海道新幹線、名神高速道路が並走します。

JR関ヶ原駅を降りると、もうそこは関ヶ原の古戦場の真っ只中です。一帯には陣跡とされる場所が点在し、いかにも日本史上の一大合戦の舞台であることを実感できます。盆地の中程には家康の陣跡や徳川方武将の陣跡、北西の高台・笹尾山には三成の陣跡などを見ることができます。
関ヶ原中学校の北門を入ったところには、藤堂高虎・京極高知の陣跡を示す標柱があります。嘉明の陣ははっきりしませんが、後世に合戦の陣配置を描いた絵図などでは、一番隊として石田陣の南東に居並ぶ最前線の武将の中にその名を見ることができます。

藤堂高虎・京極高知陣跡


なお、少し西に行った春日神社にも、高虎・嘉明の前任で東予を治めた福島正則の陣跡の標柱が建ち、後に大洲城主となる脇坂安治の陣跡の標柱も、盆地南西方面の名神高速道路を越えた森の中に静かにたたずんでいます。

特別展では、陣配置の絵図を展示するとともに、テレビや刊行物でもお馴染みの関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」の複製を展示しています。高虎と嘉明も描き込まれていますので、探してみてはいかがでしょう。

徳川家康が天下の主導権を手に入れた関ヶ原、高虎と嘉明にとっても大名として大きく躍進し、徳川幕府のもとで両家が大名家として長く続いていく端緒を開いた、まさに運命の地だったといえるでしょう。

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