「高虎と嘉明」紀行9 -松山城-

11月 4日 土曜日

松山市街の中央、道後平野を一望できる標高142mの城山に築かれた城、嘉明が築城に着手した松山城です。

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で徳川方に味方した嘉明は、恩賞として伊予半国20万石を拝領し、藤堂高虎と伊予を二分します。領地が倍増した嘉明は、道後平野の北寄りに位置する独立丘陵・勝山に、高虎の今治城と時を同じくして慶長7(1602)年から松山城の築城を開始します。

松山城

松山城は、山頂に本丸、山麓に二之丸・三之丸・東郭・北郭と、山の全方位に施設を設けた大規模な平山城です。本丸と二之丸・三之丸の間に朝鮮出兵時の倭城で用いられた登り石垣が採用され、防御機能を高めていることが特徴の一つです。また、現在は失われていますが、城山の東には城下町を囲むように堀や土塁(砂土手)が設けられ、総構の様相を呈しており、20万石の大名の居城に相応しい大規模な城だったといえます。

この松山城築城は、伊予を二分した高虎も注視していたようで、伊予灘の領地境の灘城を守る藤堂良勝へ、嘉明の本拠「松前の様子」や新城「勝山の普請」の情報を収集して報告するよう繰り返し命じています。
特別展では、これを命じた「良勝宛高虎自筆書状」を写真パネルにより紹介しています。

現在の松山城は、その後藩主となる久松松平家の改修が随所に施されていますが、嘉明時代の痕跡も残ります。本丸北西に残る嘉明築城時のものと考えられている江戸初期の野原櫓・乾櫓(国重要文化財)は代表的ですが、城山東麓の東雲公園から六角堂付近にかけては砂土手や念斎堀の在りし日の様子を色濃く残し、ロープウェイ街を歩くと東雲学園が所在する東郭跡の石垣に加藤築城時のものとみられる古い石垣も見ることができます。

松山城東郭石垣

ところで、松山城で今注目されている話題といえば、嘉明の時代の本壇(天守曲輪)の構造についてです。
加藤家が代々藩主をつとめた近江水口(甲賀市水口町)で発見された「与州松山本丸図」、嘉明の後任の蒲生忠知時代の松山城を描いた「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」、江戸前期頃成立と考えられている浅野文庫「諸国当城之図」所収の「伊予松山図」に描かれた本壇の形状は、いずれも現在の直角・直線を基調とするものとは異なり、あたかも城山山頂部の自然地形に従ったかのような多角形で曲線的な形で一致しています。
また、「与州松山本丸図」と「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」では、本壇中央に天守ではなく「いけ」「水」の表記がされています。寛永4(1627)年に公儀隠密が作成した「松山城図」にも、本壇を取り囲む櫓は描かれるものの天守らしき建物は描かれていません。
近年の発掘調査からも、嘉明時代の本壇石垣の痕跡の可能性がある遺構も検出されています。
特別展では、話題の絵図「与州松山本丸図」「松山城図」「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」を3枚並べて展示するとともに、近年の松山城発掘の成果である嘉明時代の出土遺物(滴水瓦、丸瓦、陶磁器)なども紹介しています。

こうした相次ぐ発見や研究の蓄積から、嘉明時代の松山城の真の姿が、今まさに浮き彫りにされようとしています。

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