伊賀といえば忍者、伊賀上野といえば忍者屋敷(伊賀流忍者博物館)を連想する方も多いかもしれません。
忍者屋敷は、伊賀鉄道上野市駅を降りた北側の小高い山を登ると見えてきますが、実はこの小山が伊賀上野城で、江戸時代に藤堂家が伊賀10万石支配の拠点とした城です。
高虎は、慶長13(1608)年に伊賀・伊勢へ国替になると、津城の改修に入りますが、これと同時に伊賀上野城の改修にも着手します。
当時、関ヶ原合戦で政治の主導権を握った徳川家康ですが、大坂には若き当主秀頼を擁する豊臣家がいまだ健在で、西日本には豊臣恩顧の大名も多く存在していました。この豊臣勢力に目を光らせ不測の事態に備えておく必要があった家康は、東海道の要地である伊勢・伊賀を高虎に任せ、高虎はこの豊臣の勢力が根強く残る近畿地方への最前線である伊賀に上野城を構え、戦略拠点としたと考えられています。
伊賀上野城は、本丸西側に約30mに及ぶ高石垣を備えていることで知られますが、これも西方の豊臣勢力を意識したことに由来するともいわれています。
当初高虎は、天守の建設にも着手しますが、慶長17(1612)年に暴風で倒壊します。そして、以降は江戸時代を通じて石垣の天守台のみを残し、天守が再建されることはありませんでした。現在では、昭和10(1935)年に模擬天守が建てられています。また、本丸西側に見るような高石垣も、本丸の東側には存在しません。
つまり、未完成の城といえるわけですが、これは慶長20(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家が滅び、警戒が解かれたためといわれています。
こうした経緯もあってか、要地伊賀上野城には藤堂家の一族や重臣も数多く配置されました。高虎の従弟で、伊予支配でも貢献した藤堂新七郎良勝も上野に居住し、子孫は藤堂新七郎家として伊賀上野の要職にありました。
現在、上野市駅から上野城へ向かう途中、まさに城山の南麓には、「藤堂新七郎屋敷跡」の石柱が建てられています。
また、関ヶ原合戦後に召抱えられ、藤堂姓を許された藤堂(保田)采女元則も上野に住し、子孫は代々藤堂采女家として上野城代をつとめました。
特別展では、藤堂元則が大坂夏の陣で着用したとされる「碁石頭素懸威二枚胴朱具足」を展示しています。
家康の信頼も厚く、関ヶ原合戦後には徳川権力の基盤形成に貢献していこうとする、高虎の姿勢をうかがうことができる、伊賀上野城です。
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