「高虎と嘉明」紀行16 -八尾・若江-

11月 18日 土曜日

関ヶ原合戦の勝利で主導権を握った徳川家康は、慶長8(1603)年に征夷大将軍となり、幕府政権を樹立します。しかし、一方で大坂には若き当主秀頼を擁する豊臣家がいまだ健在で、忠義を抱く大名も多数存在していました。
この二重公儀体制を清算し、権力を徳川に一元化することになった最終決戦が、有名な大坂夏の陣です。

慶長19(1614)年の冬の陣で一旦和睦するも、翌20(1615)年に再び戦いの火蓋は切られます。この夏の陣で、高虎は厳しい戦いを強いられました。

5月6日、河内方面から大坂城へと向かう先鋒をつとめた高虎らの軍勢と、家名再興を図る長宗我部盛親や秀頼家臣の木村重成の軍勢が、大坂城南東の八尾・若江で激闘を展開します。八尾・若江の戦いと呼ばれる合戦です。
冬の陣の講和で大坂城の堀を埋められた豊臣方は、夏の陣では野戦に討って出ます。
八尾では、藤堂高刑や桑名吉成らが長宗我部勢と交戦、奮戦するも彼らは討死してしまいます。桑名吉成は、もとは長宗我部氏に仕えた武将で、関ヶ原合戦で主家改易後に高虎に召し抱えられましたが、まさか旧主の軍勢と直接戦闘を交えるとは思ってもみなかったかもしれません。
若江では、藤堂良勝や藤堂良重が木村勢と交戦、激闘の末、彼らも討死することになります。この時良重は、かつて高虎が秀吉から拝領したという唐冠形兜を高虎から譲り受けて出陣していたといいます。そのため、良重の子孫たちは、唐冠形兜を先祖の武勇を物語る宝として長く受け継ぎ、現在まで伝わります。特別展では、この「唐冠形兜」や、大坂夏の陣の「陣立図」、夏の陣で藤堂元則が着用したとされる「碁石頭素懸威二枚胴朱具足」を展示しています。しかし、勢いのある木村勢でしたが、来援した井伊直孝勢との交戦の末、木村重成自身が討死してしまいます。

藤堂家のみならず、多くの戦死者を出した戦いでした。
この時藤堂家から出た戦死者は、八尾の常光寺に墓や位牌が作られ、供養されています。常光寺は、徳川幕府のブレーン以心崇伝が住持をつとめていた寺院で、高虎も崇伝とは懇意にしており、藤堂家に縁のある寺院といえます。

常光寺 藤堂家家臣墓地

また、常光寺門前を通る道を北へ向かい、第二寝屋川に差し掛かると、川の畔の小さな公園の中に、木村重成の墓が建てられ供養されています。

木村重成墓碑

この戦いの翌7日、真田信繁らが奮戦を見せるも遂に大坂城は落城、8日の秀頼自刃により豊臣家は滅亡にいたります。

多くの犠牲を払った藤堂家が、先鋒としての働きを家康へ強く印象付けることになった反面、大切な多くの家臣を失うという甚大な被害を蒙ることとなった激戦地、八尾・若江です。

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