「高虎と嘉明」紀行18 -会津若松城-

11月 20日 月曜日

 会津若松城といえば、幕末戊辰戦争で新政府軍の集中砲火に遭い、傷ついた天守の古写真をイメージする人も多いでしょう。何より、城周辺の火災を落城と取り違えた白虎隊の悲劇はあまりにも有名です。

 戊辰戦争で猛攻を受けた会津若松城ですが、実は嘉明と深い縁があります。
 寛永4(1627)年、嘉明は32年に及ぶ伊予の大名時代を終え、会津若松へ石高倍増の40万石で国替になります。ここは、かつて伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝ら名立たる武将も居城とした奥羽の要衝です。秀吉に送り込まれた蒲生氏郷の時代に、城は近世城郭として改築され、城下町も整備されました。

 嘉明は、入部翌年の寛永5(1628)年から早速城の修築を開始します。また、城下町や街道など、領内の整備にも取り組みます。
 しかし、その矢先の寛永8(1631)年、嘉明は波乱の生涯を閉じました。

 跡を継いだ子の明成は領内整備を引き継ぐとともに、寛永16(1639)年には城に北出丸・西出丸を設けるなどの改修を施すほか、慶長16(1611)年の地震で被害を蒙ったままの天守を再築して白亜五層の天守とするなど、現在の姿を整えました。

会津若松城

 そう、会津戦争を戦った会津若松城は、嘉明・明成父子が完成させた城だったのです。
 会津戦争では、約1か月にわたり籠城戦が展開されますが、最後まで落城することはありませんでした。もしかすると、嘉明・明成時代の改修が功を奏した部分があったかもしれません。

 徳川家光の異母弟保科正之を祖とする会津松平家の治世で知られる会津藩ですが、その礎として嘉明・明成父子の業績が貢献していることは間違いないでしょう。

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