「高虎と嘉明」紀行20 -水口城・藤栄神社-

11月 22日 水曜日

嘉明が寛永8(1631)年に没すると、子の明成が会津40万石を引き継ぎますが、寛永16(1639)年、家臣堀主水の出奔を発端として、寛永20(1643)年に領地を失うことになります。嘉明が一代で築いた40万石を有する全国有数の大名加藤家は危機に陥ります。

しかし、明成の子・明友(嘉明孫)に石見国(島根県)吉永1万石が与えられ、かろうじて大名加藤家の命脈を保ちます。天和2(1682)年、明友は1万石の加増を受け近江国(滋賀県)水口2万石を拝領し、水口城に入ることとなりました。明友の子・明英(嘉明曾孫)が元禄8(1695)年に下野国(栃木県)壬生2万5千石へと国替になりますが、正徳2(1712)年には明英の養子・嘉矩(嘉明玄孫)が再び水口2万5千石の藩主として水口城に戻ってきます。そして、そのまま明治維新まで水口藩主加藤家として存続します。
一度は存亡の危機を迎えつつ、加増も重ねながら、大名の地位を守り通したのです。

水口は、東海道の50番目の宿場でもあり、街道が城の北を通ります。
水口城の築城は、実は大名の本城としてではなく、水口の持つ宿場としての性格に由来します。寛永11(1634)年、将軍徳川家光が上洛した際、宿所として築かれた水口御茶屋が水口城の始まりです。しかし、将軍宿所としての使用はこの1回のみでした。
その後、加藤明友の入部によって水口藩が成立し藩庁となりますが、将軍の宿所という考え方が守り続けられ、水口藩では本丸御殿を使うことはなく、御殿解体後になっても本丸が使われることはなく、藩行政は二之丸で行われました。

現在でも、部分的に石垣や堀などの遺構が残っており、往時の姿を偲ぶことができます。

水口城


城から北東へ少し行くと、藤栄神社があります。文政12(1829)年、嘉明を祀るため水口城内に創建され、藩政期には嘉明(かめい)大明神と呼ばれていました。嘉明もまた年月を経て崇敬の対象となって、神として祀られたのです。

藤栄神社


現在では、城は本丸を除いて宅地化されているため、住宅地に囲まれるように鎮座しています。
特別展では、藤栄神社に伝わる資料から、「加藤嘉明肖像画」(レプリカ)、加藤家ゆかりの武具(「白鳥毛鎧蓑」「黒羅紗槍鞘」「ビロード地薙刀覆」)、嘉明が秀吉から拝領したと伝わる「十字形洋剣」(写真パネル)を展示しています。

秀吉との出会いから徳川への貢献まで、転換期の時流を捉え、明治維新まで続く大名としての加藤家の地位を確立するとともに、伊予や会津の太平の礎を築いた嘉明、その業績は今も各地で生き続けています。

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