肱川やその支流小田川で、木材や竹の筏(いかだ)による流送が盛んになったのは、大正から昭和初期とされています。昭和10年に長浜に集まる木材の80パーセント以上が筏流しによる運搬でした。
木材は半年ほど山で乾燥させてから、筏を組む作業をする組み場まで運びました。組み場までは、牛馬の背、人や牛での地ずりのほか、川沿いであれば川へ木を落として管流し(一本流し)で運搬されました。
坂石の筏組み 西予市野村町坂石 昭和8年
組み場は、水深があって流れの緩やかな場所に設けられました。写真は肱川上流部で、舟戸川と黒瀬川の合流地点に当たる坂石河成(こうなる)の組み場を撮影したもの。右の傾斜面を利用して木材を落として川で筏を組みました。また、手前には竹も見えるが、竹も筏に組んで流しました。
筏の組み立ては、組合員が共同で行いました。筏の先頭には長さ14尺(約4m)か、坑木(こうぼく)なら7尺に切ったものを組みました。筏は幅4尺から7尺に組んだものを1棚(ひとたな)と数え、それを10から16棚連結させて1流(ひとながれ)としました。細い方の末口を前にして組むことで筏の先の方を細くして、後方の棚ほど大きく組んでいきました。棚を組むには桟木として樫の横木を当てて、材木の両端に特別の手斧であけた穴にフジカズラを通してそれぞれを繋ぎ合わせました。後にはフジカズラの代わりに、馬蹄型のイカダバリという金具を打ち込むようになり、作業能率も上がりました。
肱川の筏流し 大洲市白滝甲 昭和20年代
筏は不慮の事故の際に助け合えるように、5~10流れがまとまって川を下りました。1流れには2人が乗りましたが、途中の森山や菅田辺りからは1人になることもありました。坂石から長浜まで筏を流して3日、帰りは歩いて1日で合計4日を要しました。大水で水流が速い時は危険ながらも1日で長浜に着くこともありましたが、逆に夏場の水が少ない時期には5~6日かかることもありました。初日は夜自宅に戻り、2日目は大洲、3日目には長浜の木賃宿に泊まり、帰路は長浜から1日がかりで帰りました。昭和に入り自転車が普及していくと、筏に自転車を積んで宿泊せずに自宅に帰る筏師も増えました。
危険な筏師の収入は他の仕事よりもよく、最盛期には肱川本流だけでも170人、支流の小田川筋の87人を加えると、概算で257人がこの仕事に就いていたといわれています。しかし、道路整備にともなうトラック輸送の増加などもあり、昭和28年に最後の筏師が陸に上がり、肱川の風物詩である筏流しは姿を消しました。