調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第5回
2017.9.13

伊予の漂流者 証言記録

漂客紀聞

松山藩が亥之助から聞き取りした記録を基にまとめられた「漂客紀聞」=1853(嘉永6)年、県歴史文化博物館所蔵
 幕末の漂流者と言えば、土佐のジョン万次郎が有名だが、伊予にも漂流の末、外国を見聞し無事帰ってきた人物がいた。興居島(現松山市)出身の亥之助である。
 亥之助は、1841(天保12)年、38歳の時に「楫取(かじとり)」として北前船に乗り兵庫を出航するが、銚子沖で嵐に遭い難破する。4カ月ほど漂流していた彼らを救ったのは、フィリピンからメキシコへ向かうスペイン船だった。メキシコで船から降ろされた亥之助らは、異国の地に置き去りにされる。しかし現地の住民に助けられ、異国の言葉に戸惑いながらも交流を深めた亥之助らは、メキシコに約2年間滞在した。
 その後、メキシコからフィリピン、清(中国)を経由し、長崎まで戻ることができた。亥之助は外国で日本人漂流者と出会うこともあった。「漂流者は牢に入れられる」などの噂(うわさ)を聞き、亥之助の仲間の中にも日本へ帰ることを恐れ中国に留まった者がいた。漂流した乗組員13人のうち、帰国したのは5人だった。
 日本に戻った亥之助は、外国で聞いた噂どおり長崎で尋問に遭い、外国から持ち帰った品はすべて没収され、キリシタンではないことを証明するため踏み絵を何度も命じられた。そして、漂流から約5年後、亥之助は故郷の松山へ帰ることができたが、松山藩からは領外で生活することや、船に乗ることを禁止された。
 漂流者の情報は、当時「海禁」として外国との貿易を制限していた幕府にとって貴重なものであり、松山藩も亥之助の証言を記録に残そうとした。今回紹介する「漂客紀聞(ひょうかくきぶん)」は、亥之助から聴き取った内容を漢学者が編集したもので、異国の生活や食べ物、動植物のことなど多岐にわたる。宇和島藩でも伊達宗城が、亥之助と共に漂流した人物の記録「亜墨利加(アメリカ)新話」を入手している。
 漂流者の記録は、ペリー来航により対外危機が高まる中、日本の針路を探る為政者にとって必要不可欠な情報であった。

(学芸員 甲斐 未希子)

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