調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第8回
2017.10.19

加藤嘉明への信頼厚く

豊臣秀吉朱印状

加藤嘉明に宛てた豊臣秀吉の朱印状=慶長3(1598)年5月3日付、県歴史文化博物館所蔵
 豊臣秀吉から、1597(慶長2)年に始まる第2次朝鮮出兵(慶長の役)に出陣中の加藤嘉明に宛てた書状。功績により10万石へ加増することを伝えている。嘉明は「賤ケ岳の七本槍(やり)」として知られる秀吉子飼いの武将で、当時は伊予松前6万石を治めていた。
 広く厚い大高檀紙(おおたかだんし)に、署名はなく朱印のみ、低い宛名位置に敬称を「とのへ」と仮名書きとし、自らに敬語表現を用いる。絶頂を極めた太閤秀吉らしく尊大である。
 冒頭でまず柴田合戦(賤ケ岳合戦)の一番槍に触れている。織田信長死後の主導権を手に入れた1583(天正11)年の賤ヶ岳合戦は、秀吉にとって大きな転機であった。一番槍の働きを今も忘れないことを標榜し、嘉明の心をつかもうとしたのかもしれない。
 次いで朝鮮での船手衆としての数度の手柄を賞している。朝鮮出兵では海上輸送が不可欠であり、沿岸部の拠点や制海権の確保も重要になる。そこで求められるのが水軍である。嘉明も、文禄の役から水軍を率いて出陣し、慶長の役では同じ伊予の来島村上通総や藤堂高虎らと一緒の部隊に編成されていた。
 そして、慶長の役では蔚山(ウルサン)城での激しい籠城戦が有名だが、戦後に諸将が連判で順天(スンチョン)城・蔚山城・梁山(ヤンサン)城の放棄案を秀吉に上申し、不興を買う。嘉明はこれに賛同せず、あくまで死守する意気込みを示した。このことが秀吉の賞賛を得て、10万石への加増となったのである。さらに、秀吉は国持ち大名に臆病者がいたら罷免して嘉明を国主にするとも付け加えている。
 追伸として秀吉は帰国後には直接対面して伝えたいとも記す。若い頃から秀吉とともにあり、出世を支え続けた嘉明に対する、秀吉の信頼と期待の厚さがうかがえる1通である。
 しかし、この3カ月後、秀吉はこの世を去り、天下分け目の関ヶ原合戦へと突き進むことになる。

(専門学芸員 山内 治朋)

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