調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第20回
2018.4.23

古代伊予国の伝説記す

釈日本紀

伊予国風土記を引用している釈日本紀=鎌倉時代後期成立・江戸時代刊、県歴史文化博物館蔵
 古代の伊予国に関する伝説が掲載された史料がある。奈良時代、「古事記」、「日本書紀」編纂(へんさん)に並行して朝廷が各国に提出を命じた「風土記」である。
 「風土記」には各国の特産品や土地の良しあし、古老の知る伝説を記録するよう命じており、律令(りつりょう)国家の確立期に地方の状況・情報を中央の朝廷で把握する意図があった。
 しかし朝廷内でも平安時代以降、「風土記」は次第に散逸してしまい、「出雲国風土記」(島根県)など5カ国分が伝わるのみであり、「伊予国風土記」は残念ながら完本としては現存しない。
 ただし、鎌倉時代後期に卜部兼方が著した「日本書紀」の注釈書「釈日本紀(しゃくにほんぎ)」には、各国の風土記本文が引用されている。「伊予国風土記」についても全6条、759字が載っており全国的に見ても豊富な分量が残されている。
 注目すべき内容は古代の道後温泉に関する記述である。少彦名命(すくなひこなのみこと)が仮死状態となり、大穴持命(おおあなもちのみこと)が大分の別府温泉を地下から引いて入浴させて蘇生したとある。また聖徳太子や斉明天皇など皇族の道後温泉への来訪が5回にも及び、その様子も詳しく記される。その記述の中には聖徳太子作という温泉碑(湯岡碑)が紹介され、温泉は人々に公平に恵みを与え、政治は人々に安心を与える。それは天寿国(極楽)のようだ、と書かれている。
 その碑については、江戸時代の「北窓瑣談(ほくそうさだん)」に1794(寛政6)年、道後温泉の傍の畑を掘り起こすと湯岡碑が出てきたが、温泉が濁ってしまったので埋め戻した、とある。この温泉碑の所在はいまもって不明のままであり、そもそも「風土記」に書かれた聖徳太子関連の伝説が史実か否かも諸説わかれるところである。
 しかし「伊予国風土記」は道後温泉だけではなく大山祇神社や野間郡の熊野岑(くまのみね=今治市)、天山(松山市)の由来などが紹介されており、古代の伊予を考える鍵となる史料であることは間違いないといえるだろう。

(専門学芸員 大本 敬久)

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