調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第37回
2019.1.22

重ね刷りであでやかに

伊予万歳の刀専版画

永井刀専が手掛けた木版画「伊予万歳の才蔵さん」。あでやかな姿を多色刷りで表現している=昭和初期、県歴史文化博物館蔵
 万歳(まんざい)は、正月に家々を回り、新年の言祝(ことほ)ぎを述べ、舞を見せる門付け芸をいう。その起源は一説に、奈良時代にさかのぼるとされるが、江戸時代には日本各地に広まり、地方色を加えて発展していった。
 伊予万歳は、松山藩士が宝永年間(1704~11年)に記した「年中行事覚」に、松平定行が藩主であった江戸初期、上方(関西)から万歳太夫を招いたと記されており、伊予万歳はそれを起源としているが、その他にも源流を愛知県の知多万歳に求める説がある。太夫と才蔵の2人の掛け合いが本来の姿であったが、江戸後期になると、才蔵の役が増えて群舞となり、「宮島心中」などストーリー性のあるものも加わっていった。
 昭和の初めになって、伊予万歳に熱い視線を送った人物がいる。松山市三番町で印章店を営んでいた永井刀専である。刀専は機械文化が進むにつれ、滅びゆく松山の風物を色にとどめるため、1932(昭和7)年に木版画の製作を開始し、約80種類の作品を遺した。
 伊予万歳をモチーフにした刀専版画は9種類あるが、今回取り上げたのは才蔵を描いた1枚。筵(むしろ)を敷いただけの舞台中央に才蔵が立ち、口上を述べているところであろうか。頭巾をかぶり、上半身は梅の文様入りの赤い襦袢(じゅばん)で、襟には黒繻子(しゅす)を掛けている。下半身は縞(しま)の着物で、派手な襦袢が見えるように両袖を脱ぎ、帯は前結びにして、そのまま前に垂らしている。伊予万歳の花といわれた才蔵のあでやかな姿が、重ね刷りで見事に表現されている。
 1945年7月19日、刀専は突如、強制疎開の命令を受け、故郷の松山市湯山への疎開を余儀なくされる。店を失った刀専の心をなぐさめたのが、疎開先の青年が戦後、練習を始めた伊予万歳であった。
 舞台では、杣(そま)仕事や畑仕事で真っ黒になった青年が一心に舞っている。それを見る方も、薄暗いランプの下で太鼓にうかれ、首を振りながら味わっている。演じる者と見る者との素朴な関係性の中に、刀専は農村芸術の原点を見いだしていたのかもしれない。

(学芸課長 井上 淳)

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