調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第43回
2019.4.7

南予最古 変革期伝える

真土村検地帳

「太閤検地」の下で作られた宇和郡真土村の検地帳=1588年、個人蔵・県歴史文化博物館保管
 豊臣秀吉の時代に全国的に実施され、「太閤検地」の名でよく知られる画期的な政策について、授業で習った記憶のある人も多いのではないだろうか。
 伊予は1585(天正13)年の四国平定の後、豊臣政権の支配下に入る。新しい政策も導入されていくが、その一つに検地もあった。本資料は1588年に宇和郡岩野郷真土村(西予市宇和町)で作成された検地帳である。
 前半は田、後半は畠(はたけ)について、1筆ごとに上・中・下・下々の等級に分け、所在地、面積、石高、耕作者を記載する。巻末には「主」として上甲又兵衛の名が見えるが、彼の子孫亀甲家はその後、代々庄屋をつとめた。こうした耕地把握は年貢収納の確実性を高め、領国支配基盤の強化につながると同時に、合戦に際して大名が出すべき兵力の基準にもなった。
 四国平定の2年後の1587年、伊予へ毛利氏一族の小早川隆景に代わって秀吉直臣の福島正則と戸田勝隆が入る。初期には浅野長吉も伊予に渡り検地に関与しており、ここから本格的に豊臣政権の指導の下で検地が進められることになった。同年の伊予の検地帳としては、中予の忽那島(松山市)や東予の新居郡長安村(西条市)のものが知られている。
 南予では翌1588年以降の検地帳が伝存しており、その初見が8月の宇和郡の真土村と川内村(河内村)である。つまり本資料は、南予で最古の検地帳ということになる。
 当時南予を治めた大名は戸田勝隆。従来、圧政を敷いた領主として語られてきたが、実は伊予の安定的支配に向け、豊臣政権の政策方針を忠実に履行する役割を担ったとして、評価の見直しが行われている。
 また勝隆は同年の8月と9月に、南予の旧来の中小領主たちへ宇和郡内の土地から所領を与えて懐柔を図っている。旧勢力を取り込むことで、支配の円滑化を目指したとみられる。こうしたことを可能とした背景に、宇和郡での検地があったことは間違いないだろう。
 短命に終わった戸田勝隆の南予支配にまつわる数少ない資料であると同時に、伊予が近世社会へと生まれ変わろうとする変革期の様子を今に伝える資料である。

(専門学芸員 山内治朋)

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