調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第53回
2019.9.17

他城と誤認 模写重ねる

伊予甘崎城図

芸予諸島の海城「甘崎城」の藤堂高虎時代の様子を描いた絵図=江戸時代、県歴史文化博物館蔵
 瀬戸内海の沿岸や小島には、かつて多くの城が築かれていた。甘崎城(今治市上浦町)もその一つで、大三島の東岸沖にある小島(古城島)全体を城郭化し、南に急流の鼻栗瀬戸、北に安芸国(広島県西部)との国境を臨む、芸予諸島の要衝に位置する海城だ。
 戦国末期には来島村上系の村上吉継の城だった。関ケ原合戦後に伊予半国の大名になった藤堂高虎は、今治城を築き始めると同時に、安芸福島領の警戒や芸予諸島の要衝管理のため甘崎城を改修し、支城とした。本図は、この藤堂時代の甘崎城を描いた絵図である。
 藤堂高虎が島の周囲に石垣を巡らせ瓦ぶきの建物を築き、近世城郭化したことは有名で、現在もその痕跡を見ることができる。1691(元禄4)年に江戸へ参府したドイツ人医師ケンペルらも、航行中に海にそびえる石垣を目にした。本図にも島を取り巻く石垣が描かれ、南東に「大手」、南西に「裏口」の枡形(ますがた)門を描き、北には「船入」も描く。
 本図の島・石垣・海岸線など城の輪郭的特徴は、「主図合結記」、浅野文庫蔵「諸国当城之図」、尊経閣文庫蔵「諸国居城図」などに所収の「宇和島」図によく似ている。「宇和島?」と首をひねるかもしれないが、実は本図の裏にも「伊予板嶋城之図」とある。つまり、これらの絵図は、甘崎城を宇和島城(板島城)と誤認しているのだ。
 これらの他にも、甘崎城を宇和島城や松前城と誤認した図が散見される。こうした城絵図は、江戸時代に軍学研究などの目的から数多く製作され、模写などで先行図が踏襲されていくことも多い。宇和島城と誤認されたまま模写等が重ねられたとみられ、本図もこれらの系統につながる一枚だろう。
 一方、文字情報は、甘崎城図としてよく知られる浅野文庫蔵「諸国古城之図」所収「天崎」図との共通点も多い。本図成立までの背景に、複数の素材が関係していることを物語る。
 近世初頭に廃城となる甘崎城。かつて要衝を管理した海城の往時の姿をしのばせる一枚である。

(専門学芸員 山内 治朋)

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