調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第65回
2020.3.9

津波被害の状況 子細に

安政南海地震「永代記録帳」

安政南海地震の被害状況を記した出海村の兵頭家文書「永代記録帳」
 四国沖の南海トラフを震源とする南海地震は、江戸時代以降、1707(宝永4)年、1854(嘉永7)年、1946(昭和21)年と約100~150年周期で発生し、愛媛県内も大きな被害に見舞われてきた。
 1854年に発生した安政南海地震では南予沿岸部には津波が襲来し、中予、東予の広い範囲で建物の倒壊や地盤沈降による海水流入などの被害があり、松山の道後温泉は湯が出なくなる事態となった。この地震に関する文字記録は県内各地に数多く残されており、その一つが今回紹介する兵藤家文書「永代記録帳」である。
 本史料は出海(いずみ)村(大洲市長浜町)の庄屋の記録であり、県内各地の被害の様子が記述されている。11月5日に大地震が発生し、出海では揺れにより多くの家屋、石垣に被害が出た。大洲藩領内では郡中(伊予市)の被害が特筆され、建物の倒壊により死者20人、負傷者40人の人的被害が出たと記される。この郡中の地震被害は安政南海地震だけはではなく、昭和南海地震でも当時の愛媛新聞に「最たる被害地は伊予郡郡中、松前町」と紹介されるほど被害が大きく、郡中警察署管内では6人が犠牲となっている。
 また、宇和島藩領内でも多くの犠牲者が出たとあり、地震の発生から数時間後には津波が到達し、宮内村、雨井浦、楠浜浦(八幡浜市保内町)では津波によって大きな被害が出た。津波は現在の国道197号近くの宮内村三島宮(三島神社)手前まで遡上し、現在の宮内川河口から内陸に1km以上のところまで舟が打ち上げられたと記される。
 雨井浦では「津波引候後に至り、町中に塩すねぎりたち申候、津波さしこみ候時より、引ぎわが殊の外おそろしきことに御座候」とあり、津波は何回も「押し波」、「引き波」を繰り返しながら襲来するが、「引き波」の方が恐ろしいと書かれている。侵入した海水だけではなく、壊れた建物などが瓦礫となって一緒に海の方向に引き流されたという状況だったのだろう。安政南海地震の際には、八幡浜市をはじめ南予沿岸部の各集落で類似した津波被害が発生したと推察できる。
 一般に「愛媛は災害が少ない」と言われるが、この言説は戦後に広まったもので、過去の地震、津波記録を眺めると、決して災害が少ない地域とは言い切れない。地域ごとの災害の歴史をあらためて振り返ってみる必要があるのではないだろうか。

(専門学芸員 大本 敬久)

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