調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第66回
2020.3.24

宝永地震の記述 詳細に

御船手向覚書

西条藩士が記した「御船手向覚書幷浦役」のうち、宝永地震について記録された部分=1707年ごろ、県歴史文化博物館蔵
現在の渦井川の河口付近を描いた挿絵(「西條誌」巻四より)。河口部右手前に西条藩の船蔵があったが高潮被害で移転、その後御船蔵新田が開発された様子が描かれている
 博物館では多くの史料を収集しているが、それらを整理した成果として目録を毎年刊行している。今月(2020年3月)末には江戸時代の西条藩・小松藩・新谷藩に仕えた藩士に関わる古文書を収録した目録を刊行するべく、ここ数ヶ月、その準備に追われている。
 私が担当するのは西条藩士の和田家文書。この和田家は西条藩の水軍である船手方に属しており、歴代の当主は船の航行責任者である船頭役をつとめている。他の藩士とは異なり、船の操縦という特殊技術で生きた家である。
 目録には文書の特徴を記した解題や主要な古文書の翻刻(くずし字を解読して活字化したもの)も収録するので、和田家文書の一点一点を改めて確認した。すると、西条藩の船手方に関わる雑多な事柄が書き込まれた「御船手向覚書幷浦役」という文書の中に、「伊予西条ニ而」と題して、宝永地震の記述があるのに気づいた。
 文書には1707(宝永4)年10月4日の「午ノ中刻」に「大地震ゆり」とあり、地震発生時刻を正午としているが、いろいろな記録をみると、未上刻(午後2時)とするものが多い。
 その次に「地形ふかふかとわれ候て、われ口よりどろ水ふき出申候」という文章が続く。これは地震後まもなく、西条の海岸部で液状化が発生したことを示している。しかも泥水が噴き出したとあるので、水や砂を吹き上げる噴砂現象も同時に起きていたことがうかがえる。本震が発生してからの余震の回数も詳細に記し、最終的には翌年7月まで9カ月間も余震があったとしている。
 文書の筆者は和田家2代目の嘉平次と思われるが、勤務する船手方の近辺で目撃したことを記した可能性が高い。実際に西条藩が編纂(へんさん)した「西條誌」は1709年に台風による高潮が堤防を破り、船蔵などの船手方の施設を陥没させたと記すが、これも2年前の地震による地盤沈下が原因と考えられる。
 一人の西条藩士が書き残した記録は、大地震後に瀬戸内海沿岸部で起こりうる地盤沈下の予兆がどのようなものなのか、私たちに伝えてくれている。

(学芸課長 井上 淳)

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