調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第68回
2020.4.24

巡拝280回 足跡を物語る

中務茂兵衛建立の遍路道標石

太山寺道に建てられた中務茂兵衛の遍路道標石(正面・左面)。県歴史文化博物館の民俗展示室3「四国遍路」で常設展示中=同館蔵
 松山市に所在する四国霊場51番札所の石手寺から52番札所の太山寺(たいさんじ)へ向かう遍路道沿いの寺井内川には、かつて上市(かみいち)橋があった。この石造物はそのたもとに建てられていた道標である。
 正面に右を指さす手がくっきりと刻まれ、その下に「太山寺道 是ヨリ六十七丁余」、左面に「左 松山 壹(いち)百度目為供養 周防国大島郡椋野村 施主 中務茂兵ヱ義教」、右面に「中務氏先祖代々 明治廿(にじゅう)一年戊子(つちのえね)五月吉辰(きっしん)建之」、裏面に「うまれきてのこるものとて石ばかり 我身は消へしむかしなりけり」とある。
 それによると、この道標石が建つ地点から、太山寺までの距離は67丁余=約7km弱(1丁は約109m)で、行き先を指印で分かりやすく示している。「左 松山」とは、道後温泉には寄らず湯築(ゆづき)城跡を経て松山城下へ至る道を案内している。
 設置者は周防(すおう)国大島郡椋野(むくの)村(現山口県周防大島町)の中務茂兵衛(1845~1922年)で、1888(明治21)年5月、自身による四国遍路100度目の成就を記念して先祖供養のため建てたものだとわかる。
 中務茂兵衛は本名中司亀吉、法名は義教。親兄弟に結婚を反対されたことがきっかけとなり、故郷を捨て生涯を遍路に身を投じ、四国遍路を280回も巡拝し、四国中に数多くの道標石を建てるなど、人々に「生き仏」として慕われた。裏面に刻まれた自詠歌「うまれきて…」は、まさしく道標石の建立に生涯をささげた茂兵衛の心境を表わしている。
 明治以降、道路拡幅や新道開通など、遍路を取り巻く交通環境も大きく変わる中で、遍路道を整備し、近代の四国遍路の発展に多大な貢献をした茂兵衛の足跡を物語る貴重な資料といえる。
 筆者が執筆した「道標石から見た四国遍路」が掲載された愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター編『四国遍路の世界』(筑摩書房)が(2020年4月)10日に刊行されたので、あわせてご覧いただきたい。

(専門学芸員 今村 賢司)

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