調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第76回
2020.8.30

勤労動員 空欄の悲しさ

松中生の日記と通知簿

1944(昭和19)年度松山中学校(現松山東高校)5年生の通知簿。2、3学期の評価が空欄となっている
松山空襲で落とされた焼夷弾と焼け野原になった街をスケッチした日記
 今回紹介する資料は、1944(昭和19)年度松山中学校(現松山東高校)5年生の通知簿である。なぜか2、3学期の評価がない。資料に記載の橋爪陽一氏(1927~2014)は伊予市中山町出身。1940(昭和15)年4月に入学、1945(同20)年3月に卒業している(当時の中学校は5年制)。5年生の2学期に何があったのか。遺された日記などから探った。
 その結果、新居浜の住友機械工業へ勤労動員を命じられていたことがわかった。1944年8月、橋爪氏は中学校の壮行会で「松中精神」の発揮を、現地の入社式では使命の完遂を宣誓している。翌月から金属加工に従事したが、赤痢に悩まされたり、機械でけがをしたりすることもあった。10月からは昼夜2交代制で勤務している。
 そのような中でも橋爪氏は勉学を怠らず、1945年1月、松山高校(現愛媛大)に合格。卒業式は現地で行われ、動員中の4、5年生374人が卒業した(4年生は繰り上げ卒業)。橋爪氏は答辞で、敵機を頭上にしての式典に感慨無量と述べている。卒業後も6月まで新居浜での勤労は続いた。
 7月に松山高校の入学式が行われたが、再び勤労動員により西条の山中で土木作業に従事した。29日、松山空襲の報を受けた橋爪氏らは松山へ帰った。駅はプラットホームのみとなり、石手川沿いの松はまだ燃えていた。中学校も明教館とプールを残して焼失。永代町の下宿も全焼した。日記には焼夷(しょうい)弾と焼け野原になった松山がスケッチされている。
 橋爪氏は終戦を中山町で迎えた。しかし、8月27日まで日記の記載はない。「驚歎、失望、落胆」して日記を書く気も開く気もしなかったと述べている。これまで必死で働き、必死で勉強してきた勤労学徒にとって、終戦はあまりに大きなショックであった。10月に授業が再開。以後、橋爪氏は医師を目指す。
 通知簿の空欄は、戦争で勉強する場を奪われ、勤労動員を命じられた学徒の存在を意味していた。勤労動員に従事と記入されることもなく、空欄のままにされた通知簿は、あまりにもさみしく感じられてならない。
 本資料はテーマ展「戦後75年 伝えたい10代の記憶」(2020年9月12日~10月25日)で初公開する。

(専門学芸員 平井 誠)

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