Archive for the ‘特別展おすすめ情報’ Category

謎が謎を呼ぶ、時の迷路展

2011年4月19日

 4月23日から始まります「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展、段々と全貌が明らかになりつつあります。

 先日お伝えした展示室内の林立する壁。

 展示室の壁は展示の内容によって様々に変化します。

 展示のイメージカラー、資料や作品を引き立てるための色や風合い・・・

 そして今回はなんと・・・!

 壁が迷路に変身?!

  

 これは先日のブログとほぼ同じ位置から撮影した写真です。

 どこが変わったかおわかりでしょうか?

  そして展示室内で発見したこの謎の石!

 もうご存知ですね。「時の迷路」で大切な役割を果たすトケイ石です。

  迷路の中をすすむと見えてくる矢印・・・

 この矢印は一体、私達をどこへ連れて行くのでしょうか!?

 やはり謎が謎を呼ぶ「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展。

 開催まであと4日です!

迷路?迷路!

2011年4月18日

4月23日から始まります「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展、着々と準備が進んでおります。
16日、土曜日から、会場となります企画展示室の設営がはじまりました。
壁が林立する様子はまるで迷路のようです。

そして突然目の前に広がる「B」の文字は一体?!

迷路に謎はつきものということで、まだまだ謎めいたレポートですが、これから展示の様子が徐々に明らかになっていくかも?!
「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展開催まであと5日です!

特別展「時の迷路」開幕まであと10日!

2011年4月13日

あと10日で開幕です。「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」展!

愛媛県歴史文化博物館にて4月23日(土)からです。

展示の概要はこちらに詳しく紹介しています。

http://www.i-rekihaku.jp/exhibition/index.html

 今回の展示は、愛媛出身の迷路絵本作家・香川元太郎さんの作品をもとに、

歴史に興味を持つきっかけとして、

遊んで学ぶことのできる迷路とかくし絵の世界を体感できます。

 

佳姫の婚礼15(完)-遺された三枚の写真-

2011年4月10日

 連載の締めくくりとして、最後に宇和島藩伊達家に伝わったと3枚の写真を掲載します。

 最初の1枚は9代藩主の伊達宗徳(だてむねえ)。アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』には、宗徳が小舟をイギリス軍艦へと漕ぎ寄せ、オペラグラスで覗く人物として登場します。艦上に案内された宗徳について、サトウは「彼は三十二歳、やや中背で、少しかぎ鼻の貴族的な顔をしており、全体的に立派な容姿をしていた」とその印象を記しています。写真を見ても、サトウが的確に宗徳の雰囲気をとらえていることがわかります。

 2枚目はこの連載で取り上げてきた佳姫(よしひめ)。体を真っ正面にむけて着座しています。顔は斜めに向け、お歯黒に置き眉という化粧がされ、いかにも大名夫人というお顔をしています。目は大きく見開き、きりりとしまった口には意志の強さもあらわれているように思います。大変めずらしい大名夫人の写真になります。

 最後の3枚目は佳姫が秋田藩佐竹家から嫁入りして、宇和島で亡くなるまでずっと世話を続けてきた老女綾瀬の写真。綾瀬は佳姫付きの奥女中を束ねる存在で、宇和島藩の奥女中のトップにふさわしい堂々とした姿に見受けられます。先の宗城の書簡にも綾瀬を思い遣る内容が記されていたので、宗城の信頼も厚かったのかもしれません。

 この三枚の写真をよく見ると、背景にいずれも紅葉を描いた屏風が使われているので、同じ時期に撮影したものと思われます。いつどのような経緯で、このような貴重な写真が撮影されたのか、興味がつきません。(完)

佳姫の婚礼14-佳姫の最後と老女綾瀬-

2011年4月7日

  イギリス軍艦が宇和島を訪れたわずか2年後の明治元(1868)年、佳姫(よしひめ)は体調をくずし、閏4月中旬には「御疲労増し不安堵の御容体」となっています。宇和島藩医が作成した「御前様御容体書」には、「血色御薄く成られ小敷御動悸短息の御気味合」とあります。また、閏4月5日に佳姫を診察した藩医渡邊玄泰は、生まれつき体が弱く、産後なので一層弱っていると記しています。佳姫は慶応3(1867)年8月と12月に流産を繰り返しており、そのことが命を縮めることになりました。佳姫の容態は一進一退が続きますが、ついに5月晦日の午後2時頃に意識を失って昏睡状態となり、6月1日に日付が変わった丑上刻(午前2時頃)に亡くなりました。わずか32年の生涯でした。

 テーマ展「宇和島藩の姫君と奥女中」には、佳姫が亡くなったという知らせを受けた伊達宗城(だてむねなり)が、母親である観姫(みよひめ、宗紀の正室)に宛てた書簡を展示しています。その内容を紹介すると次のとおりです。
 
そのち当月朔日二日両度の別便参り候処、およしこと先月より少々不快の処、晦日よりにわかに不出来ニ付御心配いろいろ御世話も被成候間、遠江様いし(医師)とも手をつくし候得とも、その甲斐もなく朔日夜半には大切ニなり候よし、まことにおもひもよらぬ事にて何とも何ともいたいたしさおなし御心に残念にて、此ち(地)にてハねみゝ(寝耳)に水とや可申候にゆめ(夢)のこゝち(心地)のみ御座候、まつまつ深き御障も不被為存此上の御こと遠江にも強きハとふ(動)しもいたさぬよし安心仕候、此地にてハ日々御用にてとりこみ候、しらすしらす日なみもすき申候、綾せ様もさそさそと心の中おしはかり申候、遠江休息もひでハあの通の人にてあといかなるやらいろいろあん(案)じ居候、かしく
   (明治元年)六月十一日
    〆
     御母上様                            いよの守

 佳姫が先月より体調を崩し、5月晦日から重体となり、藩医もいろいろ手をつくしたが、6月1日夜半に亡くなったとの報を受けて、書簡には「おもひもよらぬ事」で残念と記し、宗徳(むねえ)は激しい動揺はしていないので、安心するようにと伝えています。また、佳姫付の老女である綾瀬の心中を思いやり、今後の宗徳の奥向きのことを案じています。

佳姫の婚礼13-奥女中が見たイギリス軍艦-

2011年4月6日

 慶応2(1866)年のイギリス軍艦の宇和島来訪時のことを語っている人物として、シーボルトの孫娘高子がいます。高子はシーボルトの門人二宮敬作の甥で、自身もシーボルトが再来日した際に最後の門人となった三瀬諸淵と同年に結婚しています。高子は結婚前には宇和島藩の奥女中をとつとめていました。奥女中として体験したイギリス軍艦見学の模様を後に回想して語っています。

 この時の破天荒のことは、殿様の思召で、私共大奥の女中三十名が総勢挙って、黒船見物と申すのですから、大変であります。各々懐剣を用意して、マサカの場合には只では死なぬと、悲壮な覚悟を極めて参ったのでございます。…(中略)…参ってみれば、士官方の丁重な親切な接待ぶりで、皆アツケに取られました、私以外の女中方が驚いたのは、甲板上で襦袢を洗濯する水兵があり、襦袢をもつ毎に指の先から大変小さい泡を出して居る、シヤボンと云うものを知らぬ女中方の驚きは、非常なものでした。(長井石峰「シーボルトの孫高子逝く」(『伊予史談』97号、1938年)

 晩年の回想なので、どこまで正確かはわかりませんが、初めて目撃したイギリス軍艦の様子を生き生きと証言しています。もしかすると高子が語っているのは、佳姫(よしひめ)たちがイギリス軍艦を訪れた際に、奥女中たちも一緒になって見学した際の光景かもしれません。西洋人と日本の奥女中、鎖国時代なら相まみえることはありませんが、遠く隔たっていた二つの文化が触れあった瞬間を高子は語っているともいえそうです

佳姫の婚礼12-淑女と記された佳姫-

2011年4月5日

 佳姫(よしひめ)は、婚礼後しばらくは江戸で暮らし、安政5(1858)年に伊達宗徳(むねえ)が家督相続、宇和島藩9代藩主となると、「御前様」と呼ばれるようになります。文久2(1862)年閏8月、文久の改革により参勤交代の制度が緩和されると、江戸から国許へと移り住むことになり、その翌年4月26日に宇和島に到着しています。宇和島藩の記録を見ると、佳姫の宇和島での様子としては、慶応元(1865)年4月30日に猶姫(宗城の正室)と一緒に家老神尾帯刀(たてわき)の別荘を訪れてタケノコ掘りをしたこと、9月9日に一宮神社の祭礼見物に外出したことなどがわかります。

 慶応2年にはイギリスの駐日公使パークスが乗船したイギリス軍艦が宇和島に来訪し、その時の様子を通訳官のアーネスト・サトウが『一外交官の見た明治維新』に次のように記しています。

 隠居(伊達宗城)が立ち去ってから、この二人の君侯(宗城と宗徳)の妻子たちが艦にやってきた。彼女らは少しも私たちを恐れる気色がなく、ヨーロッパの淑女と同じくらいの心安さで、気持ちよく話をした。

 サトウが記した君侯の妻子たちの中に、佳姫もいたものと思われます。様々な教養を身につけている大名家の婦人は、西洋人サトウの眼にもレディそのものに映ったことでしょう。

佳姫の婚礼11-数々の嫁入道具-

2011年4月3日

 宇和島藩9代藩主伊達宗徳(むねえ)と佳姫(よしひめ)との婚礼について追ってきましたが、秋田藩の記録からは、佳姫が宇和島藩に嫁入道具として持ち込んだ品の一端もうかがえます。安政3(1856)年7月よりとされる「佳姫様伊達様へ御入輿(にゅうよ)御召京都御注文申立控」を見ると、「御香御用」として銀葉や極上伽羅(きゃら)などの香木をはじめ、縮緬(ちりめん)の大夜着、綸子(りんず)や縮緬の振袖地などの多数の衣装が書き上げられています。香木や衣装などの多くが、伝統文化を体現する都市、京都に発注されていたことがわかります。その費用は金にして804両余り。1両5万円で換算すると、4000万円余りになります。

 また、この他にも、秋田藩の奥手代役が作成した安政3年10月の「佳姫様御引越御用立申立」という記録が遺されています。この記録には、様々な種類の笄(こうがい).かんざしなどの髪道具をはじめ、琴、義太夫三味線などの楽器類、袂入(たもといれ)や巾着(きんちゃく)、袱紗(ふくさ)などの小物類、眉(まゆ)はけ、眉白粉(まゆおしろい)、紅筆などの化粧道具などが記されています。こちらの費用は金で305両余り。現在の感覚でいうと1500万円余り。これらはおそらく以前記した5000両の支度金の中で準備されたものと考えられます。

 しかし、秋田藩の記録には、三棚をはじめとする婚礼調度をつくる経費を見出すことができません。佳姫が宇和島藩に持って入った婚礼調度は、花菱と幸菱を組み合わせた幾何学模様で埋め尽くし、要所に秋田藩の家紋月丸扇紋を散らした大変豪華なもので、この調度の製作により秋田藩の財政が傾いたという言い伝えもあります。このことについて、藤川裕子氏は縁組より以前に既にこれらの調度が準備されていたと推測していますが、先に記した婚礼時の秋田藩の経済状況を見ると、私もその理解でいいのではないかと思います。つまり、佳姫の婚礼調度は以前に準備されていたものが転用された可能性もあり、そのため財政状況の悪化した幕末の大名家の婚礼調度としては異例の豪華さであったとも考えることができます。佳姫の婚礼調度は、大名家の質量ともに最も充実した大名家の婚礼調度として、(財)宇和島伊達文化保存会に現在も伝わっています。

佳姫の婚礼10-盛大な婚礼-

2011年3月31日

 佳姫(よしひめ)の駕籠は宇和島藩上屋敷の表御門から入り、次に御奥御門に進み、若年寄は作法通りに貝桶を渡す儀式を行い、その後両家家老により佳姫が乗る御輿の引き渡しの儀式が行われます。駕籠はそのまま祝いの間に入り、見えないように屏風をひきまわします。その後新郎である伊達宗徳(むねえ)が祝いの間に入り、駕籠に手をかけ佳姫(よしひめ)がはじめて姿を現します。

 付き添いの老女が佳姫を休息の間に案内し、佳姫は上の間に着します。続いて宗徳が入り佳姫のお守りを老女が宗徳方の老女に渡すと、宗徳はこれに会釈し、お守りを床に掛けて式が行われます。佳姫持参の宗徳の衣装が披露され、盃事が行われます。宗徳の方から贈られた佳姫のお色直しの衣装も披露され、佳姫は休息の間でお色直しをすると、お互い贈られた衣装で揃って祝いの間に入り、再び盃事を行います。そして、寅刻(午後4時)過ぎに式が終わり、宗徳と佳姫は奥に下がっています。

 五半時(午後8時)になり、伊達宗城(だてむねなり)が御表に出座、老若はじめたくさんの藩士が召され、盛大な酒宴が始まります。巳刻(午後10時)になり、新奥の用意ができたとの知らせで、宗徳が新奥に渡り御床盃の儀式が行われています。それからさに、九時(午前0時)に、宗城の御奥にて奥老をはじめとする奥女中、その他の御側の衆にお酒を賜り、謡に踊りにと宴会は続きます。大名家の婚礼がいかに大変であったのかが伝わってきます。

 御輿入れあとにも、12月21日の皆子餅を配ったり、翌年の婿と舅のそれぞれの訪問、幕府への婚姻届けの提出などがありますが、以下は細かい話しになるので省略します。

佳姫の婚礼9-華麗な婚礼行列-

2011年3月30日

 いよいよ佳姫(よしひめ)が宇和島藩上屋敷に移る日、安政3(1856)年12月16日がやってきます。この日は貝桶を渡す儀礼をはじめいろいろな儀礼がありますが、宇和島藩8代藩主伊達宗城(むねなり)の記録、「稿本藍山公記」から大まかな流れだけを整理しておきます。

 まず、佳姫は五つ(午前8時)に浅草の秋田藩江戸屋敷を出発、四つ(午前10時)過ぎには、宇和島藩の方にも佳姫が秋田藩江戸屋敷を出発したとの知らせが入ります。九つ時(正午)になり、ようやく佳姫が到着しています。佳姫の婚礼の行列ですが、最初は御当日御道具として、当日持ち込む婚礼調度の行列が続きます。この御当日御行列の最初の方、「御召替乗物」と記された駕籠の中に、天児(あまがつ)とあります。この天児は子どもの形をした人形で、大名家では子どもが生まれると、その子が災難にあわないように子どもの身代わりとしてつくられました。男の子は犬張り子とともに15才で産土神の神社に奉納されますが、女子の場合はこのように嫁入りの時にも輿にのせていったそうです。婚礼の際には天児にも膳を捧げたりもしました。

 天児の後には貝桶なども続いています。この貝桶は大名の婚礼にあたり貝桶渡しという儀礼に使われる重要な道具として当日持って入りました。その後にかなり長い佳姫の婚礼行列が続きます。最初に護衛の武士が続き、しばらくすると老女綾瀬の駕籠があります。この老女が佳姫様付き奥女中の中で一番格上の奥女中になります。それからしばらく護衛の武士が続き、佳姫の駕籠がようやく現れます。佳姫の駕籠は、他の駕籠と違って御日傘を差しかける人までも付いて歩いています。さらに護衛の武士が続き、挟箱、茶道の師匠、茶弁当と続き、御付の奥女中の駕籠が続きます。騎馬の行列、藩医の駕籠などが続き、行列の最後に婚礼を差配した秋田藩家老の中安内蔵(くら)の駕籠があります。多くの人間が付き従った華やかな婚礼の行列であったことがわかります。

 婚礼行列が歩いたルートは、先に記した婚礼調度のルートと一緒と考えると、次のようになります。行列は下谷八軒町の秋田藩上屋敷を出発していますが、これは現在の台東区台東三丁目のエリアになります。それから津藩藤堂家の中屋敷前を通り、神田佐久間町、神田橋御門のあたりを通り、日比谷御門方面へ。そして日比谷堀、外桜田の長州藩毛利家の上屋敷の前に行き当たります。この毛利家の屋敷は、現在の日比谷公園に当たります。さらに新橋を抜けると、新橋外愛宕下通の丸亀藩京極家の上屋敷があります。現在の虎ノ門駅付近になります。葵坂、霊南坂と通り、佐賀藩鍋島家の中屋敷がありますが、これが虎の門二丁目の大蔵省の印刷局があるあたり。麻布市兵衛町、六本木通りを通って麻布龍土の宇和島藩上屋敷に到着しています。東の浅草から3~4㎞くらいでしょうか。大人数の行列が午前中、時間をかけながら麻布まで移動しています。正午に宇和島藩上屋敷に到着。その様子を宗城はのぞき見したようで、「佳姫様御到着ニ付廊下へ御出テ御覧遊ハサル、御行装立派ナリ」と「稿本藍山公記」にあります。