調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第19回
2018.4.7

津波規模想定の資料に

安政南海地震の記録

江戸末期に発生した安政南海大地震の被害状況などを記した「嘉永七寅年十一月大地震記録」(県歴史文化博物館蔵)
 熊本地震から(2018年4月)14日で丸2年を迎える。今年(2018年)2月、政府の地震調査委員会は、南海トラフ地震が30年以内に発生する確率を最大で80%に引き上げることを公表した。県内でも南海トラフ地震への不安が高まりつつある。
 巨大地震に備えるには、自分の住む地域で過去に起きた地震とその被害を知ることが有効だ。そのためにも地元に残る地震に関する記録史料の掘り起こしが急務となっている。
 今回取り上げる「嘉永七寅(とら)年十一月大地震記録」は、1854(安政元)年11月5日に発生した安政南海地震の記録である。書かれたのは、地震から1カ月後の12月で、記録者として安土浦(西予市三瓶町)の73歳の老漁民、佳亭仙風の名前がある。
 「大地震記録」は地震の発生を夕七ツ(午後4時ごろ)とし、5~7刻(2時間半~3時間半)の長時間にわたり揺れがあったことを伝えている。安土浦では、この揺れで壁土が落ちたり傾いて住めないなど、家屋への被害が出ている。暮れごろには津波が押し寄せ、集落に流れ込んでいく。
 当時、宇和海沿岸の村々では、段々畑で栽培したサツマイモを主食としていたが、津波は各住宅の床下にあった貯蔵用の「イモツボ」に到達、安土浦の大部分に当たる27軒で、イモをぬらすなどの被害があった。
 また仙風は、148年前の大地震(宝永地震)のほか、300~400年前にもこの地域で大地震があったことを書き留めている。慶長地震と考えられるが、この時に津波が隣村、津布理村の遍路供養まで到達したことを記しており、今後の起こるべき津波の大きさを想定する上で重要な情報となりうる。
 しかし安政年間には認識されていた遍路供養の位置が、今回現地調査をしても特定するに至らなかった。長い時間が経過することで地震の記憶が風化し、忘れ去られた事例といえる。過去の地震の記憶をどのように継承していくのか。「大地震記録」から突きつけられた課題はあまりにも大きい。

(学芸課長 井上 淳)

 「大地震記録」は、2018年3月に刊行された愛媛県歴史文化博物館「研究紀要」23号で詳しい内容を紹介している。

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