調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第46回
2019.5.21

主観図の面白さ際立つ

伊予国之図

江戸初期の伊予を捉えた「伊予国之図」。佐田岬が南に垂れ下がり、南予のリアス海岸もダイナミックに描かれている=県歴史文化博物館蔵
 水色と白色を背景に浮かび上がる不思議な形。これを見てすぐに愛媛県の形と感じたなら、地理感覚が鋭い人かもしれない。
 本図は江戸時代の伊予を描いたものであるが、一番の特徴は、本来は南西に向けて延びる佐田岬が南に垂れ下がっていること。限られた紙面に伊予の姿をコンパクトに収めるための工夫の跡ともいえる。南部のリアス海岸も、異様なほど屈曲が激しく、複雑な伊予の姿を何とか捉えたいという作製者の強い意志がうかがえる。近代的な測量図とは異なり、主観図ともいえる江戸時代の地図の面白さが際立つ。
 絵図の内容をみていくと、各藩の藩庁として松山城、今治城、大洲城、宇和島城が記されている。各城とも文字で記されるだけだが、なぜか大洲城だけは姿絵も付けられ、ラフスケッチながらも、堀の位置などが正確に表現されている。
 中世以来の古城については、南伊予を除き城名が墨書されている。郡境には墨線が引かれ、それぞれの郡には多くの楕円(だえん)形が描かれている。楕円の内側には村名が記され、色の塗り分けで各藩の所領配置を示している。主要な河川が水色で描かれ、陸の街道、海の航路には朱線が引かれるなど当時の交通状況も一目瞭然(りょうぜん)だ。
 本図の原形になっているのは、寛永国絵図である。1633(寛永10)年、江戸幕府の諸国巡検使が全国に派遣されるが、その際に作製された一国ごとの絵図が寛永国絵図とされている。国絵図作製の直後、伊予においては松山藩主蒲生忠知(ただとも)の急逝にともない、大洲藩主加藤泰興が、自らの風早郡、桑村郡の領地と松山藩領であった伊予郡、浮穴郡の領地の一部交換を幕府に願い出て、許可される。
 これを替え地というが、寛永国絵図は替え地以前の所領配置を描くのに対して、本図は替え地後の状況を描いている。さらに言えば、吉田藩領、小松藩領が見当たらないことから、おおむね1634~36年頃の伊予を描いたものと特定できる。伊予に八つの藩が誕生する以前の過渡期を映し出した絵図で、伊予の全体を描いたものとしては最も古い寛永伊予国絵図の系統図としても注目される。

(学芸課長 井上 淳)

 伊予国之図(宇和郡)は、絵図・絵巻デジタルアーカイブに高精細画像で公開中。

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