調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第81回
2020.11.11

ルーツは1000年以上前か

音地遺跡出土の土師器坏

音地遺跡から出土した15世紀後半~16世紀前半の土師器坏。県教育委員会蔵、当館保管。
 松山自動車道の建設に伴い、1998(平成10)年10月~翌年2月に発掘調査した西予市宇和町新城の音地遺跡は、肱川支流の岩瀬川中流域の西側河岸段丘上に営まれた遺跡である。ここでは縄文時代早期の遺物が15点出土した以外に、多くの中世遺物が出土した。
 うち、最も多く出土したものが口径10cm前後の土師(はじ)器の坏(つき)である。これは、うわぐすりをかけない素焼きのやきもので、現在、一般的には「かわらけ」と呼ばれる。
 土師器という名称は、「延喜式」巻二十四主計上に「大和國[行程一日]調。(中略)贄土師竈廿八口。河内國[行程一日]調。(中略)贄土師鋺形二百七十口。」と、朝廷に「土師」製のものを貢納した記述が見え、平安時代には使われていたようだ。
 また、枕草子では清少納言が、「きよしとみゆるもの かはらけ」とその清浄さを述べている。今でも神様への供物やお神酒の杯、厄よけなどの願いを込め、高台の観光地で投げる遊びに使われるなどしているが、そのルーツは千年以上前からあったのかもしれない。
 写真の右側の土師器坏は、推定口径11.7cm、器高3.2cmで、4間×2間の掘立柱建物跡のそばの、15世紀後半~16世紀前半の遺物が含まれる溝から出土した。この溝からは530点もの土師器の破片が出土しているが、中世には、食器や儀式のほか、宴会用の使い捨て容器としても使われていたため、数十枚、数百枚とまとまって出土することがよくある。音地遺跡ではどのような使い方がされていたのだろうか。
 また、内面中央に地元の地域的な特徴である「一文字ナデ」と呼ばれる指ナデの痕跡がみえ、同様の特徴を持つものが、わずかではあるが鬼北町の国史跡等妙寺旧境内でも見つかっている。音地遺跡は集落、等妙寺旧境内は寺院という違いはあるが、何らかの関係性がうかがえるだろう。
 これまでの同境内の調査では、西地区の平坦部A-1(山王跡)からは、220点余りのまとまった土師器の破片が出土している。山王跡のため、神式の儀礼で使ったと考えられる。
 本資料は館と鬼北町の共催のテーマ展「奈良山等妙寺の至宝と国史跡等妙寺旧境内」(2020年11月14日開幕)でも展示する。

(専門学芸員 亀井 英希)

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