調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第83回
2020.12.17

的確指示 人物像浮かぶ

山家清兵衛の書状

和霊神社の祭神となった山家清兵衛の書状(個人蔵、県歴史文化博物館保管)
 歴史上の人物の生没年が気になる。これも一種の職業病なのかもしれない。なぜ気になるのか。それは博物館で人物の展示をするのに、生誕何年や没後何年にひっかけることが多いからだ。誰か生誕100年、没後200年など、切りのいい数字になる人がいないか。展示の企画を立てる時には、最初にそれを考える。でも今年は誰も思い浮かばなかった。
 そんなある日、宇和島市立伊達博物館の展覧会のチラシを見かけた。そこには「没後四百年 山家清兵衛」の文字が……。すっかり見逃していた。さすが地元の博物館と感心しつつ、伊達博物館の展覧会に便乗すべく、当館でも山家清兵衛の書状を常設展示室に展示したのだった。
 山家清兵衛は宇和島藩初代藩主伊達秀宗の時代に惣奉行を務めた人物である。1620(元和6)年、清兵衛は秀宗の密命により宇和島で襲撃され、非業の死を遂げる。清兵衛の死後、天災や関係者の遭難などが続いたため、清兵衛のたたりとされ、1653(承応2)年には和霊神社が創建されることになった。
 本資料は掛け軸に仕立てられているが、それを収めた木箱には「和霊宮御神筆」と箱書きされている。和霊神社の祭神による真筆として大事にされてきたことが伝わる。
 書状は沖の島(高知県宿毛市)の3人に宛てて記されたもの。沖の島のうち、窪浦で他領への逃亡者が出て、久左衛門の漁業に支障が出ているとあり、戻った百姓から1人を窪浦に派遣することを命じている。沖の島は宇和島藩領と土佐藩領が入り組んだ島で、度々国境を巡る争いも起きている。そんなナーバスな島で起きた漁民の逃亡。沖の島の漁業を維持するため、清兵衛がこうした問題にも対応して在地へ細かく指示を出していたことがうかがえる。
 本資料以外にも、清兵衛の書状は、400年以上前の人物にしてはよく残っている。祭神となったこともさることながら、藩の行政機構が未整備だった江戸時代初期、清兵衛が宇和島藩の民政や財政を一手に掌握していたからであろう。短い文章で的確な指示。書状からは能吏であった清兵衛の人物像が見事に浮かび上がる。

(学芸課長 井上 淳)

山家清兵衛書状は、不定期の展示になっています。展示の有無については、博物館までお問い合わせください。

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