調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第90回
2021.4.10

ヤマト政権との縁示す

松山・津田山古墳出土の仿製獣帯鏡

箱式石棺に副葬された倭鏡(愛媛県教育委員会蔵、県歴史文化博物館保管)
 一昨年(2019年)、世界遺産に登録された大阪の「百舌鳥・古市古墳群」が築造された主要な時期は5世紀で、巨大な前方後円墳が近畿地方を中心に築造された古墳時代中期である。この時期の松山平野の状況を示すのが今回紹介する資料である。松山平野西端の松山空港に程近い垣生山、弁天山、津田山が所在する丘陵上に位置する津田山古墳から出土したものである。
 1969(昭和44)年、みかん園の導水管敷設の際に箱式石棺が発見され、人骨一体とともに出土した。直径12.2cmの鏡には、5体の獣像を中心とした文様が表現されている。当時の日本列島で製作された倭鏡、仿製鏡(ぼうせいきょう)と呼ばれるものである。
 獣像は観察すると嘴(くちばし)や翼があり、2体は鳥を表現していると考えられる。筆者がこの鏡に興味を持ったのは、約10年前に報告書が刊行された兵庫県朝来市の茶すり山古墳から類似資料が出土していると知ったからである。
 同古墳は、古墳時代中期の径約90mの円墳で、2領の甲冑(かっちゅう)や計19本の刀剣、計4面の銅鏡などの副葬品からヤマト政権と密接な関係にあった5世紀前半の但馬の王墓に位置づけられる。同古墳から出土した銅鏡は、古墳時代前期後半に作られ、配布主体のヤマト政権で長期間保有され、中期に配布・副葬されたと考えられている。
 なぜ但馬の王墓と松山平野の箱式石棺に類似した鏡が副葬されたのであろうか。両古墳の規模や副葬品の差異は、被葬者のヤマト政権との関わり方を示していると考えている。津田山古墳の周辺では、前代の古墳時代前期には土器交流拠点である宮前川遺跡群のほか、中国の魏鏡などを副葬した朝日谷2号墳もあり、古墳時代前期から重要な地域の一つであった。
 中期になると、首長墓と想定される大規模な古墳が松山平野では築造されなくなり、その象徴が津田山から出土した倭鏡ではないだろうか。つまり、大規模な古墳を築造せずとも、ヤマト政権との何らかのつながりを有した被葬者がこの地にいたと考えている。約50年前に発見された資料であるが、その後の類似資料の発見により、評価や問題点は変化することがあることを実感している。

(専門学芸員 冨田 尚夫)

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