調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第94回
2021.5.27

教訓25ヵ条や事績記す

弘法大師空海の遺言

弘法大師空海の遺言とされる「遺告二十五箇条」。平安時代中期成立、1763(宝暦13)年写(県歴史文化博物館蔵)
 平安時代前期に活躍した四国出身の真言僧・空海は晩年、高野山(和歌山県)で過ごし、835(承和2)年3月21日に亡くなった。本資料はその1週間前に自ら著した遺言とされ、弟子達が守るべき25カ条がつづられている。また、青年期に室戸岬など四国で修行を積んだ様子や、中国(唐)に渡って真言密教を日本にもたらした事績なども記されている。
 空海の真筆・原本とされるものは高野山金剛峯寺に保管され、真言宗の中で永く大切に扱われてきた。ただし、近年の研究により、空海自身の作ではなく没後約100年経った10世紀の成立であり、空海の真意を弟子たちがまとめたというのが通説となっている。
 9世紀半ばに朝廷が編さんした『続日本後紀(しょくにほんこうき)』には空海が835年に生涯を終えたことが明記されているが、後世、空海は亡くなったのではなく、永遠の禅定に入ったと解釈され、現在でも高野山奥之院や東寺において毎日、生身供(しょうじんく)が供えられ、また四国遍路では同行二人(どうぎょうににん)といって遍路とともに四国を巡っているとされる。
 ところが本資料には、空海は死後、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の浄土である兜率天(とそつてん)に上り、56億7千万年後に現世に降りることが述べられている。そして、その間は雲のすきまから人々の様子を観察し、仏道に励む者は救済されると記されるなど、生身供や同行二人といった弘法大師に対する信仰とは異なった内容となっている。
 空海に対して「弘法大師」の号が朝廷から与えられたのは没後86年が経った921(延喜21)年のことであった。以降、人々に信仰される弘法大師の姿が形成、定着することとなる。「遺告二十五箇条」はまさにその時期に成立したもので、人間・空海が信仰の対象になっていく過程を知る上で興味深い資料といえる。
 県歴史文化博物館では新常設展「密●空と海―内海清美(うちうみきよはる)展」にて空海の生涯を紹介している。

(専門学芸員 大本 敬久)

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