調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第110回
2022.1.20

四国遍路 庶民に育まれ

弘法大師と衛門三郎の刷り物

遍路の元祖とされる衛門三郎伝説が紹介された刷り物。
(縦41.2cm、横27.5cm。県歴史文化博物館蔵)
 あらゆる分野に比類なき業績をのこした空海(弘法大師)は、835(承和2)年3月21日、高野山奥之院で永遠の瞑想(めいそう)に入る。空海は今なお生き続け、弥勒菩薩(みろくぼさつ)のもとで衆生の救済を行っていると信仰され、各地にはさまざまな空海伝説が生まれている。
 その中でも有名なものに遍路の元祖とされる衛門三郎伝説がある。いくつか異説があるが、1690(元禄3)年の真念著「四国遍礼(へんろ)功徳記」には次のように記されている。
 予州浮穴郡の衛門三郎は悪人で、托鉢(たくはつ)に訪れた僧の鉢を杖(つえ)で八つに割ってしまう。その後、8人の子が次々に亡くなり、それが僧(実は弘法大師)への悪事の報いであると悟った三郎は大師の跡を追い四国遍路に出る。21回の遍路でついに阿波国の焼山寺(徳島県神山町)の麓で、死ぬ間際に大師に出会い、過ちをわび、伊予の領主河野家に生まれ変わることを願う。大師は石に三郎の名前を書いて手に握らせ、その後、河野家にその石を握った子が生まれる。その子は成長して河野家を継ぎ、安養寺を再興して、その石を納めて石手寺と名前を改めたと伝えられる。
 今回紹介するのは、衛門三郎と弘法大師が描かれた木版の刷り物である。
 上部には衛門三郎の略伝が記され、下部には、手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、修行姿の弘法大師が右に、胸に札挟み(納め札入れ)をかけ、杖を持ち、座った衛門三郎が左に描かれている。「伊予国下浮穴郡 小村大師堂」とあることから、三郎が遍路を始めた場所とされる小村大師堂(松山市小村町)、通称「札始(ふだはじめ)大師堂」で作成されたものと考えられる。刷り物は素朴な作りであるが、庶民の中に育まれた四国遍路と弘法大師信仰が見て取れる。
 松山市周辺には石手寺をはじめ、三郎の8人の子を埋葬したと伝えられる八塚、三郎の菩提寺で邸宅の跡地といわれる文殊院徳盛寺(とくじょうじ)など、衛門三郎ゆかりの地が多い。

(専門学芸員 今村 賢司)

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