調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第116回
2022.4.28

海上用 大名自作の珍品

大洲藩伝来の船手具足

船手具足(上)と金唐革(下)。県歴史文化博物館蔵。
 船手具足は、海上での戦いを想定して、最小限の金具しか用いずに作られた鎧(よろい)で、胴が魚の鱗(うろこ)のようになっているのが特徴である。この鱗の部分は水中に入ると逆立ち、浮袋の役割をすることから、「水中鎧」ともいわれる。兜(かぶと)も含めて素材のすべてが革でできており、通常の鎧に比べるとかなり軽くなっている。
 本資料の兜の裏には「大関括囊斎(かつのうさい)甲冑(かっちゅう)一領」の朱書がある。この括囊斎を調べてみると、大洲藩6代藩主加藤泰衑(やすみち)の八男で、下野国黒羽(くろばね)藩大関家の養子となった大関増業(ますなり)が、隠居後に使用した号であることがわかった。また、大洲藩加藤家に伝わった鎧などを書き上げた記録には、「ウルミ塗御具足箱一荷 大関公作」とある。これらのことから、船手具足は増業が自作して生家の加藤家に贈ったものであることが判明した。
 増業が11代藩主になった1811(文化8)年、黒羽藩は厳しい財政難に陥っていた。行き詰まった藩財政を再建するため、増業は特産品の殖産政策や藩校の設置などの藩政改革に取り組むが、家臣からの反発も大きく、就任からわずか13年で、隠退に追い込まれている。増業が号とした「括囊」とは、袋の口を括(くく)るように身を慎んでいたら、とがめられることも、ほめられることもないという、「易経」の一節から採られている。能力がありながらも身を引かざるを得なかった増業の無念さがうかがえる。
 隠居後の増業は兵学の研究に注力したほか、武具の中でも鎧に大きな関心を寄せ、練革(ねりかわ)を用いた鎧の製法として「練革私記」を著している。船手具足は、この本で記したことを増業自身が実際に試したものといえる。大名自らがハンドメードした鎧など、類例を聞かない。胴の裏側に舶来の豪華な金唐革(きんからかわ)が貼られているのも珍しい。船手具足は、軽量の鎧を目指す合理的な精神やオランダ趣味など、まさに増業自身を体現した資料といえよう。

(学芸課長 井上 淳)

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