調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第120回
2022.6.18

朝廷編さん 国史に記録

古代石鎚修行僧の転生譚

「日本文徳天皇実録」。878(元慶2)年成立、1796(寛政8)年刊。県歴史文化博物館蔵
 西条市と久万高原町の境に位置する石鎚山は標高1982m。西日本最高峰であり、地元のみならず松山平野や遠くは中国地方などからも眺望できることから、古くから信仰の対象となり、修行の場としても知られていた。
 文献史料での石鎚山の初見は平安時代の前期、797(延暦16)年に空海が記した「聾瞽指帰(ろうこしいき)」に、自ら修行した場所として「石峯」が挙げられ、「伊志都知能太気(いしつちのたけ)」と記されている。
 そして、820年頃成立の説話集「日本霊異記」には、奈良時代の石鎚山での修行者が登場する。
 それによると、寂仙(じゃくせん)という僧侶が石鎚山で修行し、人々からあがめられていた。寂仙は758(天平宝字2)年、自分の死後28年で天皇の子に生まれかわり、神野(石鎚山が位置する郡名。西条市、新居浜市付近)と名づけられるであろうと遺言し、亡くなった。そのとおりに桓武天皇に皇子が生まれ、神野親王(後の嵯峨天皇)と名づけられ、人々は寂仙の生まれかわりと信じたという。
 「日本霊異記」から半世紀後、文徳天皇(嵯峨天皇の孫)の時代の出来事を朝廷が878(元慶2)年に編さんした国史「日本文徳天皇実録」にもこれに類する話が見られる。
 ここでは生まれ変わったのは上仙となっており、上仙は山頂に住み、修行に励んで師の灼然の後を継ぎ、鬼神を自由に使役した。そして常に天子に生まれたいと願い、臨終の際に人々に「もし天子に生まれたら郡の名前をもって名字とする」と予言して亡くなった。その後、天皇に皇子が誕生するが、その時代は乳母(めのと)の姓を皇子の名前とする慣習となっており、乳母の姓が神野であったことから神野親王となったと記される。
 また、神野郡の橘という所に、上仙を熱心に供養した「橘の嫗(おうな)」という女性がいて、嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子に生まれ変わったとも記される。橘嘉智子は皇太后、太皇太后として活躍し、850(嘉祥3)年に亡くなった。石鎚で修行した上仙や橘の嫗の転生譚(たん)はその嘉智子が亡くなった際の伝記(没伝)に中に含まれている。
 このように、後世に語られた民間伝承ではなく、当時の朝廷が編さんした国史に記録された説話であり、多くの貴族や僧侶の間で語られていた。それだけ平安時代前期に石鎚山は広く知られる存在であったといえるだろう。

(専門学芸員 大本 敬久)

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