調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第123回
2022.8.11

兵器製作に女学生動員

風船爆弾

風船爆弾
 まもなく終戦から77年。今年(2022年)も日本人が忘れてはならない暑い8月が来た。
 今回は当館の歴史展示室4(近・現代)で模型展示している「風船爆弾」について紹介する。風船爆弾とは、直径10mの気球に爆弾をつるし、偏西風(ジェット気流)に乗せて、米国本土を攻撃しようとした秘密兵器である。本資料は2008(平成20)年の特別展「愛媛と戦争」にあわせて、四国中央市紙のまち資料館の模型を参考に約11分の1のスケールで製作した。
 風船爆弾は、1944(昭和19)年から翌年にかけて、千葉県一宮町、茨城県大津町(現北茨城市)、福島県勿来町(現いわき市)から、約9300個が放たれた。その内361個が米国で目撃され、山火事や死者を出している。送電線を故障させ原子爆弾製造を3日遅らせたほか、オレゴン州でピクニックに来ていた神父の家族6人が亡くなっている。
 風船爆弾を製作していたのは女学生たちである。愛媛県立川之江高等女学校33回生の会による「風船爆弾を作った日々」(鳥影社、2007年)を読み返しながら、当時の聞き取り調査を思い出してみる。
 1941(昭和16)年4月に入学した33回生は、44年6月末から9月初めにかけてコウゾの皮はぎに従事した。8月23日、学徒勤労令施行規則が公布されると、33回生のうち約100人は五つの製紙工場へ動員されて原紙作り、残りの約50人は国産科学工業株式会社愛媛工場(学校工場)で気球貼り作業を行った。
 大小の和紙をこんにゃくのりで5段に貼り重ねる原紙作りは、工場の温度と湿度、蒸気やのりのにおいなどに悩まされたそうだ。一方、原紙を裁断してこんにゃくのりで1球になるように貼り合わせる気球貼りは、終日指で和紙をこするため血がにじみ痛みに耐えながらの作業だった。1945(昭和20)年3月、風船爆弾作りは終了したが、33回生は専攻科に進み、終戦まで動員先を転々とした。
 風船爆弾は、当時の女学生が兵器の製作に従事していたことの一例である。風船爆弾をご覧いただき戦争の悲惨さと平和の大切さを考える機会となれば幸いである。

(専門学芸員 平井 誠)

※キーボードの方向キー左右でも、前後の記事に移動できます。