調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第126回
2022.9.20

垣間見る門前町の対応

西国巡礼への餞別記録

「西国行ニ付餞別之控」1794年、県歴史文化博物館蔵
 1794(寛政6)年に松山藩領南久米村(松山市)の商家浅井家(屋号・室屋)から西国三十三所巡礼に出た伊兵衛(満政)の道中記「西国順礼道仲誌」を、以前本連載で紹介した。
 日尾八幡神社や四国霊場第49番浄土寺の門前町で、遍路道や金毘羅街道が交わる要衝でもある久米町に栄えた浅井家は、日ごろから遍路に接する環境にあったためか、伊兵衛の後も1823(文政6)年に子の鉄五郎(悦政)、1842(天保13)年に孫の佐太郎(祥政)、1848(弘化5)年に同熊之丞(基政)がそれぞれ四国遍路へ、次右衛門なる人物が伊勢参宮へと、一族が代々巡礼に出ている。そのため、西国巡礼の道中記・納経帳・支出記録・餞別(せんべつ)控帳はじめ、四国遍路や伊勢参宮の納経帳や餞別・留守見舞いの控帳といった、巡礼にまつわる資料が伝わっている。
 写真は「西国行ニ付餞別之控」で、伊兵衛の西国巡礼の際に贈られた餞別の記録。ほとんどが「通宝」「通印」と記された藩札で、日尾八幡神社宮司三輪田播磨(清綱)からの通宝2匁(もんめ)5分を筆頭に総勢37人が名を連ね、写真中央には最高額となる三蔵院(浄土寺)の同5匁も見える。また、南久米村庄屋、屋号を冠した町衆など有力者のほか、町衆・村民・隣村者・近隣寺院・松山城下町衆など、幅広くから贈られている。
 四国遍路や伊勢参宮の際も、宮司三輪田家や浄土寺をはじめ、庄屋・町衆・村民・近隣寺院などから同様に餞別が贈られた。佐太郎・熊之丞・次右衛門の巡礼については、留守中に持参された留守見舞いを書き留めた帳面も残されていて興味深い。こちらは金銭ではなく、餅と総菜をセットにして重箱などで持参するのが主流だったようで、他にすし・麺・酒なども見える。三輪田家や浄土寺からも酒やそうめんが贈られており、普段からの交流の様子をうかがわせる。
 これらの資料からは、門前町の商家の財力や人脈はもちろん、送り出す側の対応も知ることができる。また、札所寺院と日常的に関わり、巡礼が身近にあった地域における巡礼時の様子や意識が垣間見える。

(専門学芸員 山内 治朋)

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