宇和島藩上屋敷出土温石(東京都教育委員会蔵)
これは、大きさ7.1cm、幅5.2cm、厚さ1.6cm、重さは105gを測る石です。表面には、「賀藤 小西」の文字、裏側には梅樹の文様が描かれています。上には穴があけられています。これは、一体なんでしょう?
温石と呼ばれる、石製のカイロです。暖をとるため、温めた石を布に包んで使用されました。表面の名まえは、持ち主でしょうか?宇和島藩江戸藩邸に住んでいた武士が、江戸時代になんらかのきっかけで落としてしまったのでしょうか。
宇和島藩上屋敷出土温石(東京都教育委員会蔵)
これは、大きさ7.1cm、幅5.2cm、厚さ1.6cm、重さは105gを測る石です。表面には、「賀藤 小西」の文字、裏側には梅樹の文様が描かれています。上には穴があけられています。これは、一体なんでしょう?
温石と呼ばれる、石製のカイロです。暖をとるため、温めた石を布に包んで使用されました。表面の名まえは、持ち主でしょうか?宇和島藩江戸藩邸に住んでいた武士が、江戸時代になんらかのきっかけで落としてしまったのでしょうか。
宇和島藩上屋敷出土徳利(東京都教育委員会蔵)
これは、主に酒を入れるための、やきものの徳利です。江戸後期の風俗誌『守貞漫稿』には、貧乏徳利と紹介されています。胴部には酒屋の屋号が釘書きされています。本資料は瀬戸美濃産のやきもので、宇和島藩の上屋敷では大量に見つかっていますが、伊予では見つかっていません。江戸屋敷には、たくさんの武士たちが居住していました。単身赴任者も多く、酒を飲んで騒いでいた様子が想像されます。
宇和島藩上屋敷出土鯉形花器(東京都教育委員会蔵)
これはやきものでできた鯉です。ちゃんと目も口ヒゲもあり、鱗も一枚一枚浮き彫りに表現されています。鱗には、ところどころ金彩が残っており、当初は金泥で光輝いていたのでしょう。
これは、置物でしょうか?実は花器なのです。胴部が空洞になっており、口が大きく開いています。下側のおなかには穴があり、壁に掛けられるようになっています。壁掛け用花器と考えられます。鯉の滝登りをイメージしているのでしょうか?花を活けて江戸屋敷を華やかに飾ったことが想像されます。
宇和島藩上屋敷出土陶磁器(東京都教育委員会蔵)
江戸時代の大名屋敷には、多数の地下室が掘られています。写真は、宇和島藩上屋敷の一つの地下室から見つかった大量の出土遺物です。組み物の陶磁器や金属製品など、さまざまな種類の製品を見ることができます。地下室に大切に保管されていた品々が火災や災害に遭い、18世紀末~19世紀初頭に、そのまま放棄されたようです。これらの資料は、当時の人々が、どんなものを所有していたかを今の私たちに伝えてくれます。
第32回全国育樹祭のため10月25日から来県されていた皇太子さまは、27日には当館を訪問されました。お昼前に到着された皇太子さまは、玄関前で当館の中岡信久館長らの出迎えを受けました。
そして、2階にあがり、総合案内前で館長から施設の概要などを聞いた後、歴史展示室内を山本信吉名誉館長からの説明を受けながら、原始時代から戦国時代までの愛媛県の歴史に関する資料を見学されました。とくに、関心をお持ちの中世瀬戸内海水運のコーナーでは水軍の船の模型などを熱心にご覧になっていました。
いつもなら静かな月曜日の博物館ですが、この日ばかりは大勢の行啓関係者でにぎわっていました。職員も普段とは違う雰囲気の中で、心地よい緊張感をもって仕事にのぞめた一日ではなかったでしょうか。
宇和島藩上屋敷出土大皿(東京都教育委員会蔵)
宇和島藩上屋敷からは、30センチを超える大皿が多数見つかっています。
これらは、肥前(現在の佐賀県)で焼成された磁器です。手描きで優美な文様が器面いっぱいに描かれています。染付だけでなく、色絵の大皿もあります。
大名屋敷跡からは、このような大皿が多数見つかります。大名家ではさまざまな儀式に伴う宴会が催され、大皿が使用されていたと考えられます。
展示室には、宇和島藩上屋敷から見つかった、さまざまな大皿を展示しておりますので、ご覧ください。
宇和島藩上屋敷出土鍋島焼(東京都教育委員会蔵)
江戸時代、伊予には8つの藩がありましたが、江戸屋敷が発掘調査されたのは、宇和島藩と西条藩のみです。宇和島藩の上屋敷は六本木にありました。近年、国立新美術館や政策研究大学院大学を建設するにあたり東京都埋蔵文化財センターにより大規模に発掘調査され、膨大な資料がみつかりました。今回の特別展では、宇和島藩上屋敷の資料を約200点初公開しています。初めてのお国入りです。順次ご紹介していきます。
まず注目されるのが、鍋島焼です。これらは佐賀藩鍋島家の藩窯で焼成された、江戸時代最高級のやきものです。大変技術の高いやきもので、文様も精緻です。染付の若松の文様の皿には、小皿や大皿が見られます。なかには製品として外部には出ない、色絵素地もあります。
宇和島藩上屋敷からは鍋島焼が64点も出土し、これは一大名屋敷からの出土としてはかなり多い数量とされています。宇和島藩と佐賀藩は3代にわたり婚姻関係があり、出土資料からも両家のつながりがうかがえます。
今回、鍋島焼の魅力をもっと知っていただくために、特別に東京国立博物館から伝世品の鍋島焼である、あの有名な「色絵桜樹文皿」を5客お借りして展示しております。美しい色絵鍋島焼を間近くで見ることのできる、絶好の機会です。
江戸時代、最高の技術で焼成された鍋島焼を、展示室でぜひじっくりご覧ください。
現在、開催中のロビー展「森のめぐみ 木のものがたり」関連として、れきはく周辺の里山を歩きながら、身近な自然や文化をまなぶイベント「里山を歩こう!」を開催します。
日 時 10月26日(日)13:30~16:00頃
(雨天の場合は、11月9日に延期します。)
集合場所 愛媛県歴史文化博物館 玄関
対 象 小学生以上~一般 当日先着45名
講 師 水本孝志さん(さんきら自然塾塾長)
参加費 50円(保険料)
歩くルートは、次のとおりです。
(1)れきはく出発→(2)雨山公園・薬草園→(3)光教寺
→(4)経の森→(5)御篠山(標高388m)→(6)43番札所明石寺
→(7)雨山公園→(8)れきはく帰着・解散
約4キロの行程です。歩く道は高低差はありますが、地元の人の散歩道でもあります。秋の自然観察、そして少し高い場所から宇和盆地をながめてみませんか?みなさんの参加をお待ちしています。
なお、参加される方は、歩きやすい服装、水筒をご持参いただくことをおすすめします。
長浜の貯木場 大洲市長浜町長浜 昭和11年
肱川を筏にして下ってきた木材は長浜に集められました。大正8年には県内最大の伊予木材株式会社が設立、その後も木材会社が次々に進出して、長浜は木材集散地として和歌山の新宮、秋田の能代とともに全国に知られるようになりました。
長浜に集められた木材は機帆船に積み込んで、瀬戸内海の香川、岡山、広島、山口県などで販売されました。長浜には瀬戸内海から関西一円の木材会社がセリに集まり、そのセリの価格が西日本全体の価格水準になるとまでいわれていました。
運搬船に積み込まれる坑木 大洲市長浜町長浜 昭和11年
昭和初期には、大手商社の三井物産が伊予木材を傘下におさめ、台湾への移出を始めました。販路はさらに満州や朝鮮などの外地にも広がり、社宅や駅舎などの外地での建築資材として使用されました。また、小さい材木屋は「伊予の小丸太」と呼ばれる建築材の柱や、炭坑の支柱になる坑木(こうぼく)などを取り扱い、北九州や宇部などの炭坑に運びました。
戦時中の軍需物資としての木材の統制を経て、戦後は復興のための木材需要が高まり、再び木材業は好況に沸きました。しかし、外材の輸入の増加やトラック輸送への変化もあり、長浜はかつての全国的な木材集散地としての地位を次第に失っていきました。
肱川やその支流小田川で、木材や竹の筏(いかだ)による流送が盛んになったのは、大正から昭和初期とされています。昭和10年に長浜に集まる木材の80パーセント以上が筏流しによる運搬でした。
木材は半年ほど山で乾燥させてから、筏を組む作業をする組み場まで運びました。組み場までは、牛馬の背、人や牛での地ずりのほか、川沿いであれば川へ木を落として管流し(一本流し)で運搬されました。
坂石の筏組み 西予市野村町坂石 昭和8年
組み場は、水深があって流れの緩やかな場所に設けられました。写真は肱川上流部で、舟戸川と黒瀬川の合流地点に当たる坂石河成(こうなる)の組み場を撮影したもの。右の傾斜面を利用して木材を落として川で筏を組みました。また、手前には竹も見えるが、竹も筏に組んで流しました。
筏の組み立ては、組合員が共同で行いました。筏の先頭には長さ14尺(約4m)か、坑木(こうぼく)なら7尺に切ったものを組みました。筏は幅4尺から7尺に組んだものを1棚(ひとたな)と数え、それを10から16棚連結させて1流(ひとながれ)としました。細い方の末口を前にして組むことで筏の先の方を細くして、後方の棚ほど大きく組んでいきました。棚を組むには桟木として樫の横木を当てて、材木の両端に特別の手斧であけた穴にフジカズラを通してそれぞれを繋ぎ合わせました。後にはフジカズラの代わりに、馬蹄型のイカダバリという金具を打ち込むようになり、作業能率も上がりました。
肱川の筏流し 大洲市白滝甲 昭和20年代
筏は不慮の事故の際に助け合えるように、5~10流れがまとまって川を下りました。1流れには2人が乗りましたが、途中の森山や菅田辺りからは1人になることもありました。坂石から長浜まで筏を流して3日、帰りは歩いて1日で合計4日を要しました。大水で水流が速い時は危険ながらも1日で長浜に着くこともありましたが、逆に夏場の水が少ない時期には5~6日かかることもありました。初日は夜自宅に戻り、2日目は大洲、3日目には長浜の木賃宿に泊まり、帰路は長浜から1日がかりで帰りました。昭和に入り自転車が普及していくと、筏に自転車を積んで宿泊せずに自宅に帰る筏師も増えました。
危険な筏師の収入は他の仕事よりもよく、最盛期には肱川本流だけでも170人、支流の小田川筋の87人を加えると、概算で257人がこの仕事に就いていたといわれています。しかし、道路整備にともなうトラック輸送の増加などもあり、昭和28年に最後の筏師が陸に上がり、肱川の風物詩である筏流しは姿を消しました。