
ない袖は振れぬ(イラスト 菊池安希子)
きものの袖は洋服の袖とちがって布をたっぷり使ってあります。腕を動かせば、袖も一緒に動きます。もし、きものに袖がなければ、振りたくても振れません。「ない袖は振れぬ」とは、持っていないものは出したくても出せない、という意味です。
昔は、着るモノといえば洋服ではなくきものでした。「昔の道具の謎をとけ!」展で、昔の着るモノについて探ってみませんか。
例 そんな大金を貸してくれって言われても、ない袖は振れないよ。

「昔の道具の謎をとけ!」展に展示中のきもの

ない袖は振れぬ(イラスト 菊池安希子)
きものの袖は洋服の袖とちがって布をたっぷり使ってあります。腕を動かせば、袖も一緒に動きます。もし、きものに袖がなければ、振りたくても振れません。「ない袖は振れぬ」とは、持っていないものは出したくても出せない、という意味です。
昔は、着るモノといえば洋服ではなくきものでした。「昔の道具の謎をとけ!」展で、昔の着るモノについて探ってみませんか。
例 そんな大金を貸してくれって言われても、ない袖は振れないよ。

「昔の道具の謎をとけ!」展に展示中のきもの
12月に入り、博物館では次回の展覧会「おひなさま」の展示準備だけでなく、関連イベントの準備も取りかかっています。毎年恒例となってきた「おひなさまイベント」のメインは、なんといっても十二単や袿袴姿の着用体験になるのではないでしょうか?十二単と袿袴姿用の衣裳は新たに新調したので、広報用の写真が必要になっていました。そこで、12月のある日、いつもは資料の写真撮影に使う博物館のスタジオですが、今日ばかりは毛せんを敷いて金屏風を引き回し、慣れない撮影会となりました。
十二単は、白衣に濃色の袴をつけた上に、単、五衣、打衣、表着、唐衣、裳を次々に着付けていきます。

着付けには二人がかりで大体20分程度、こちらは、身長140センチから160センチくらいの小中学生用になっていますが、重さは12キロもあるんですよ。
袿袴姿は、当館所蔵の西条藩松平家雛飾りの女雛と同じタイプの衣裳で、白衣に紅色の袴をつけた上に、単、袿を着付けます。

こちらの衣裳は130センチ~140センチくらいの小学生用、このほかに色違いで110センチ前後の幼児~小学生用もあります。
大勢のギャラリーがカメラを構えているなか、和やかに撮影が進みます。


着付けから撮影終了まで二時間あまり。プロの写真館のようにはいきませんが、なんとか無事撮影することができました。重い衣裳にもかかわらず、最後まで笑顔で頑張ってくれたIさん姉妹、本当にお疲れさまでした。

おひなさまイベントは、平成21年2月28日(土)、3月1日(日)です。
「十二単着付け体験」、「おひなさまに変身」などイベントの詳細は後日お知らせしますので、お楽しみに。

金(かね)のわらじでたずねる
(イラスト 菊池安希子)
わらじも昔のはきものです。ふつうのわらじは「わら」でできています。ずっと使っているとぼろぼろになるので、新しいわらじにはきかえます。
いくら歩いてもすりへらない鉄のわらじで、価値のあるものをじっくりと探すことを「金のわらじでたずねる」といいます。
例 金のわらじでたずねても、こんなにやさしい人はいない。

「昔の道具の謎をとけ!」展に展示中のわらじ
(中央がわらじ。 左側はわらぞうりです)
「昔の道具の謎をとけ!」展では、ことわざになった道具を紹介しています。2007年の「異界・妖怪大博覧会」展では妖怪になった道具を紹介しました。
「百鬼夜行絵巻」という絵巻物では、顔や頭などの体の一部が道具で表現されている妖怪が描かれているのです。それは、道具を粗末に扱うと妖怪になってしまうという考えからきています。
同じように、古くから人々の間で言われてきた教訓やことわざのなかにも、道具が出てきます。それだけ、人々に身近でわかりやすいたとえとして道具が使われたということでしょう。
紹介する道具はいずれも「昔の道具の謎をとけ!」展で見ることができますので、ぜひご覧のうえ、ことわざを使いこなしてください。

下駄をはかす(イラスト 菊池安希子)
下駄とは昔のはきもののことです。下駄をはくと背が高くなることから、ものの値段や数字を実際よりも高くつけることを「下駄をはかせる」といいました。
下駄やぞうりも今の靴と同じように、天気や着る服、何をするかを考えて、えらばれました。さあ、「昔の道具の謎をとけ!」展で、はきものから天気や人物を推理してみませんか。
例 遊んでばっかりのあの子が落第しないなんてびっくりだ。テストの点数に下駄をはかしてもらったんじゃない?

下駄の展示風景

特集展示「昔の道具の謎をとけ!~怪人れきはくからの挑戦状~」は、本日開幕しました。
この展示は、常設展示観覧料でご覧いただけます。
大人 500円(400円)
※( )内は20名以上の団体料金
※小・中学生、65歳以上の方は無料です。
職員一同、みなさまのご来館を心よりお待ちしております。
「大変よ!今すぐ展示室にいらして!」
2008年12月20日の朝、事件は起こりました。
E博物館の職員が展示室に駆けつけると、なんと不思議なことでしょう!展示室の入り口に、怪人れきはくからの招待状が挑むかのように掲げられています。

挑戦状の掲げられた展示室入り口
呆然と立ち尽くした職員たちは、我に返り、展示室に一歩足を踏みいれます。
するとそこには、整然と並んだ昔の道具たちと怪人れきはくからの謎が!
「い、いつのまに、こんなことが・・・」
「昨日までは、この展示室はからっぽだったはずですわ。」
いぶかしむ職員たちが、道具の謎に一つ一つ挑みながら先へ進みます。
怪人れきはくは職員に変装し、昔の道具を綿密に調査し、来館者の動向や反応を探っていたのです。そして満をじして出された謎の数々!
職員たちは昔の道具をよく見て、もし自分だったらどう使うか・・・頭をフル回転させながら考えます。
そして、最後のコーナーを曲がった職員の目に入ったその姿は!
黒いつやつやとした帽子の下に赤く光るマスク。そして指さすその先にあるものは!

指さすその先に
怪人れきはくの手によるスペクタクルの幕が今ここにあがりました。
もう後戻りはできないのです。
先に進むよりほかはないのです。
ようこそ、「昔の道具の謎をとけ!~怪人れきはくからの挑戦状~」展へ
おわり(このお話はフィクションです)
私の名前は「怪人れきはく」。本名はもう覚えていない。本当の名前など私には必要がないからだ。
私の一番古い記憶は、神戸の港から母方の祖父母に手をひかれ外国へ向かう船に乗ったことだ。渡欧した初代「怪人れきはく」の足跡をたどるためドイツに向かったのは、1988年、昭和最後の年がまもなく終わろうとしている頃だった。
あれから長い年月がたち、懐かしい故郷に戻って一番驚いたのは、私の愛する道具たちのことだ。飴色になるまで使い込まれた木の手触り、何度も研ぎなおし小さくなっていくにつれ増す金属の頼もしさ。
あのいとおしい道具たちの活躍する場所はもうないのだろうか。私たちの手となり足となってくれた道具たちは今、どこにいるのだろうか。
私は道具たちを探して、日本中を歩きまわった。時には丁寧に手入れされた道具に安堵し、時には今も重宝されている道具を見て快哉を叫んだ。しかし粗大ごみの日に道端に打ち捨てられている道具に涙することも多かった。修理するすべもわからず、すぐに新しい道具(それはもう機械と言えるかもしれない)を買う人々の姿にこぶしを震わせた。
もう道具の居場所が消えつつあるのが現実なのだろうか。
「知らない」ということ。「見たことがない」ということ。「使ったことがない」ということが、昔の道具を追い詰めているのではないだろうか。
しかし、昔の道具に光を当てようとする動きもないわけではない。町の資料館や博物館、学校では昔の道具の仕組みや使い方に注目し、今も大切に保存されている。
私の調査によると、近々E博物館で昔のくらしや道具を紹介する展示が行われるらしい。E博物館に恨みはないが、我輩の舞台に選ばせてもらおう。昔の道具の謎をめぐるスペクタクルの始まりだ。
そう、挑戦状を送るのだ。
つづく(このお話はフィクションです)

博物館とは、歴史や美術、科学など、あるテーマについて、価値のある大切なモノを集め、保存し、研究し、色々な人にそのすばらしさを伝える施設です。
E博物館で働く人達が、最近寄ると触ると話題に出るのが、ある「不思議な現象」のことです。
「昨日、途中までしていた資料の整理が、今朝見たら終わってるんだよね。」
「そういえば、昨日の夜、物音が聞こえておりましたわ。おかしいわね。鍵を閉めたのは私が最後のはずですのに。」
「さくら小学校の見学の時に、展示の説明ってどなたがされたの?」
「僕は知らないな。」
「私もその日は調査で、博物館にいなくてよ。」
「じゃあ、一体??『とても楽しゅうございました』とお礼のお手紙をいただいたのだけれど・・・」
そんな博物館に、ある日挑戦状が届きました。
ああ、なんということでしょう。そこには「怪人れきはく」のサインが入っているではありませんか。いったい「怪人れきはく」とは誰なのか?博物館で起こる不思議な現象とのかかわりはいかに?
博物館は何も言わず、山の上に静かにそびえたつばかりです。
つづく(このお話はフィクションです。)

先日、新聞社からある資料のことで、取材を受けました。2年ほど前の展覧会で、その資料を当館で借りて展示したためでした。記事は既に掲載されましたが、短いコメントなので資料の価値について伝えることができたのか不安も残りました。そこで、ブログの場を借りて、もう一度その資料のことを思う存分に紹介してみたいと思います。
取材があった資料とは、宇和島自動車株式会社が所蔵している吉田初三郎の肉筆の鳥瞰図で、画面の右上に「宇和島自動車株式会社路線大観図」とタイトルが記されています。戦後の昭和28(1953)年の製作。大きさは縦116センチ、横343センチで、額装されています。
同時期に宇和島市が初三郎に依頼した鳥瞰図が、宇和島市街を中心に描いているのに対して、宇和島自動車が依頼した鳥瞰図では、当時のバス路線を反映して南予を中心として、東は松山・高松から東京まで、西は別府、南は室戸・足摺岬までの広域が描かれています。霊峰石鎚山が画面中央の一番高いところにそびえ立っているのは、四国の人間としてはうれしい表現。宇和島自動車のバス路線が示されていて、路線をたどりながら絵の中で周辺の観光地めぐりが楽しめるように工夫されています。
展覧会後に、館蔵品である地理学者村上節太郎が収集した資料を整理していたところ、この肉筆をもとにして宇和島自動車が印刷した観光パンフレット「観光の南伊豫」が見つかりました。その表紙には和霊神社と雪輪の瀧が描かれ、裏面には「山と海の景観に恵まれた情緒溢(あふ)れる南伊豫の旅」というキャッチコピーが躍っています。また、初三郎自身は「絵に添へてひとふで」において、「南伊豫全地域」にわたる景勝山河の大風光裡、本社バスの交通と、観光の一大文化記録画と記しています。

観光の南伊豫(表紙)
吉田初三郎は、大正から昭和にかけて全国の観光地を宣伝する鳥瞰図を2000点以上制作していますが、宇和島自動車のものは初三郎の本格的な肉筆の鳥瞰図として最晩年の作品に当たります。既に老齢の初三郎はその作成にあたり、戦前の陸軍陸地測量部の精密地図と写真により下図を作成しました。そして、昭和28年に32年ぶりに現地入りして鳥瞰図を完成させました。大胆なデフォルメ、地形を大きくゆがまさせて描く変幻自在な作風は、本作品の特徴としても見出せます。初三郎が描いた愛媛県内の鳥瞰図は15点ほどと考えられますが、そのうち肉筆は、本資料以外に昭和14年の八幡浜市鳥瞰図、宇和島自動車と同じ昭和28年の宇和島市鳥瞰図しか確認されていません。初三郎最後の大作として貴重なものといえます。

観光の南伊豫(部分)
霊峰石鎚に源を発し、西条市に注ぐ加茂川流域は古くから林業が盛んで、加茂川林業の名で知られています。第二次世界大戦以前の加茂川流域は、上浮穴郡・喜多郡・北宇和郡などとともに、愛媛県の木材の供給地として重要な位置を占めていました。木材の輸送には加茂川が使われましたが、喜多郡の肱川とは異なり急流の加茂川は筏流しには向かず、木材を1本ずつ流す管流しがされていました。細くて長い垂木(たるき)や、長大な桁丸太(けたまるた)は川に流すことができず、駄馬の背にのせて西条・氷見・小松まで搬出されていました。

索道による木材の運搬 西条市西之川 昭和25年
木材を集める土場への搬出には、駄馬や木馬が使われていました。しかし、馬道は比較的平坦なところにあったので、急峻な山地では人力で運ばなければなりませんでした。大正4(1915)年に木材搬出用の最初の索道が河ケ平(こがなる)に架設されると、大正末頃までに加茂川一帯に普及していきました。この索道の建設は、西ノ川や大森鉱山の銅鉱石が下津池を経て、端出場まで索道で運ばれていたことにヒントを得たといわれています。

戦後になると、加茂川の流送が昭和25年には姿を消し、写真のようにトラック輸送が主流となっていきました。