怪人れきはく その光と影 最終話(三話完結)

2008年12月20日

「大変よ!今すぐ展示室にいらして!」

 2008年12月20日の朝、事件は起こりました。
 E博物館の職員が展示室に駆けつけると、なんと不思議なことでしょう!展示室の入り口に、怪人れきはくからの招待状が挑むかのように掲げられています。

挑戦状
挑戦状の掲げられた展示室入り口

 呆然と立ち尽くした職員たちは、我に返り、展示室に一歩足を踏みいれます。
 するとそこには、整然と並んだ昔の道具たちと怪人れきはくからの謎が! 

「い、いつのまに、こんなことが・・・」
「昨日までは、この展示室はからっぽだったはずですわ。」
 
 いぶかしむ職員たちが、道具の謎に一つ一つ挑みながら先へ進みます。
 怪人れきはくは職員に変装し、昔の道具を綿密に調査し、来館者の動向や反応を探っていたのです。そして満をじして出された謎の数々!
 職員たちは昔の道具をよく見て、もし自分だったらどう使うか・・・頭をフル回転させながら考えます。
 そして、最後のコーナーを曲がった職員の目に入ったその姿は!
 黒いつやつやとした帽子の下に赤く光るマスク。そして指さすその先にあるものは!

指さすその先に
指さすその先に

 怪人れきはくの手によるスペクタクルの幕が今ここにあがりました。
 もう後戻りはできないのです。
 先に進むよりほかはないのです。

 ようこそ、「昔の道具の謎をとけ!~怪人れきはくからの挑戦状~」展へ

 おわり(このお話はフィクションです)

怪人れきはく その光と影 第二話(三話完結)

2008年12月19日

 私の名前は「怪人れきはく」。本名はもう覚えていない。本当の名前など私には必要がないからだ。
 私の一番古い記憶は、神戸の港から母方の祖父母に手をひかれ外国へ向かう船に乗ったことだ。渡欧した初代「怪人れきはく」の足跡をたどるためドイツに向かったのは、1988年、昭和最後の年がまもなく終わろうとしている頃だった。
 あれから長い年月がたち、懐かしい故郷に戻って一番驚いたのは、私の愛する道具たちのことだ。飴色になるまで使い込まれた木の手触り、何度も研ぎなおし小さくなっていくにつれ増す金属の頼もしさ。
 あのいとおしい道具たちの活躍する場所はもうないのだろうか。私たちの手となり足となってくれた道具たちは今、どこにいるのだろうか。
 私は道具たちを探して、日本中を歩きまわった。時には丁寧に手入れされた道具に安堵し、時には今も重宝されている道具を見て快哉を叫んだ。しかし粗大ごみの日に道端に打ち捨てられている道具に涙することも多かった。修理するすべもわからず、すぐに新しい道具(それはもう機械と言えるかもしれない)を買う人々の姿にこぶしを震わせた。
 もう道具の居場所が消えつつあるのが現実なのだろうか。
 「知らない」ということ。「見たことがない」ということ。「使ったことがない」ということが、昔の道具を追い詰めているのではないだろうか。
 しかし、昔の道具に光を当てようとする動きもないわけではない。町の資料館や博物館、学校では昔の道具の仕組みや使い方に注目し、今も大切に保存されている。
 私の調査によると、近々E博物館で昔のくらしや道具を紹介する展示が行われるらしい。E博物館に恨みはないが、我輩の舞台に選ばせてもらおう。昔の道具の謎をめぐるスペクタクルの始まりだ。
 そう、挑戦状を送るのだ。

 つづく(このお話はフィクションです)

怪人れきはく その光と影 第一話(三話完結)

2008年12月18日

 博物館とは、歴史や美術、科学など、あるテーマについて、価値のある大切なモノを集め、保存し、研究し、色々な人にそのすばらしさを伝える施設です。
 E博物館で働く人達が、最近寄ると触ると話題に出るのが、ある「不思議な現象」のことです。

「昨日、途中までしていた資料の整理が、今朝見たら終わってるんだよね。」
「そういえば、昨日の夜、物音が聞こえておりましたわ。おかしいわね。鍵を閉めたのは私が最後のはずですのに。」

「さくら小学校の見学の時に、展示の説明ってどなたがされたの?」
「僕は知らないな。」
「私もその日は調査で、博物館にいなくてよ。」
「じゃあ、一体??『とても楽しゅうございました』とお礼のお手紙をいただいたのだけれど・・・」

 そんな博物館に、ある日挑戦状が届きました。
 ああ、なんということでしょう。そこには「怪人れきはく」のサインが入っているではありませんか。いったい「怪人れきはく」とは誰なのか?博物館で起こる不思議な現象とのかかわりはいかに?
 博物館は何も言わず、山の上に静かにそびえたつばかりです。

 つづく(このお話はフィクションです。)

怪しい人影

吉田初三郎の「宇和島自動車株式会社路線大観図」

2008年12月11日

 先日、新聞社からある資料のことで、取材を受けました。2年ほど前の展覧会で、その資料を当館で借りて展示したためでした。記事は既に掲載されましたが、短いコメントなので資料の価値について伝えることができたのか不安も残りました。そこで、ブログの場を借りて、もう一度その資料のことを思う存分に紹介してみたいと思います。

 取材があった資料とは、宇和島自動車株式会社が所蔵している吉田初三郎の肉筆の鳥瞰図で、画面の右上に「宇和島自動車株式会社路線大観図」とタイトルが記されています。戦後の昭和28(1953)年の製作。大きさは縦116センチ、横343センチで、額装されています。

 同時期に宇和島市が初三郎に依頼した鳥瞰図が、宇和島市街を中心に描いているのに対して、宇和島自動車が依頼した鳥瞰図では、当時のバス路線を反映して南予を中心として、東は松山・高松から東京まで、西は別府、南は室戸・足摺岬までの広域が描かれています。霊峰石鎚山が画面中央の一番高いところにそびえ立っているのは、四国の人間としてはうれしい表現。宇和島自動車のバス路線が示されていて、路線をたどりながら絵の中で周辺の観光地めぐりが楽しめるように工夫されています。

 展覧会後に、館蔵品である地理学者村上節太郎が収集した資料を整理していたところ、この肉筆をもとにして宇和島自動車が印刷した観光パンフレット「観光の南伊豫」が見つかりました。その表紙には和霊神社と雪輪の瀧が描かれ、裏面には「山と海の景観に恵まれた情緒溢(あふ)れる南伊豫の旅」というキャッチコピーが躍っています。また、初三郎自身は「絵に添へてひとふで」において、「南伊豫全地域」にわたる景勝山河の大風光裡、本社バスの交通と、観光の一大文化記録画と記しています。

観光の南伊豫(表紙)
観光の南伊豫(表紙)

 吉田初三郎は、大正から昭和にかけて全国の観光地を宣伝する鳥瞰図を2000点以上制作していますが、宇和島自動車のものは初三郎の本格的な肉筆の鳥瞰図として最晩年の作品に当たります。既に老齢の初三郎はその作成にあたり、戦前の陸軍陸地測量部の精密地図と写真により下図を作成しました。そして、昭和28年に32年ぶりに現地入りして鳥瞰図を完成させました。大胆なデフォルメ、地形を大きくゆがまさせて描く変幻自在な作風は、本作品の特徴としても見出せます。初三郎が描いた愛媛県内の鳥瞰図は15点ほどと考えられますが、そのうち肉筆は、本資料以外に昭和14年の八幡浜市鳥瞰図、宇和島自動車と同じ昭和28年の宇和島市鳥瞰図しか確認されていません。初三郎最後の大作として貴重なものといえます。

観光の南伊豫(部分)
観光の南伊豫(部分)

村上節太郎写真28 索道とトラック

2008年12月10日

 霊峰石鎚に源を発し、西条市に注ぐ加茂川流域は古くから林業が盛んで、加茂川林業の名で知られています。第二次世界大戦以前の加茂川流域は、上浮穴郡・喜多郡・北宇和郡などとともに、愛媛県の木材の供給地として重要な位置を占めていました。木材の輸送には加茂川が使われましたが、喜多郡の肱川とは異なり急流の加茂川は筏流しには向かず、木材を1本ずつ流す管流しがされていました。細くて長い垂木(たるき)や、長大な桁丸太(けたまるた)は川に流すことができず、駄馬の背にのせて西条・氷見・小松まで搬出されていました。

索道による木材の運搬
索道による木材の運搬 西条市西之川 昭和25年

 木材を集める土場への搬出には、駄馬や木馬が使われていました。しかし、馬道は比較的平坦なところにあったので、急峻な山地では人力で運ばなければなりませんでした。大正4(1915)年に木材搬出用の最初の索道が河ケ平(こがなる)に架設されると、大正末頃までに加茂川一帯に普及していきました。この索道の建設は、西ノ川や大森鉱山の銅鉱石が下津池を経て、端出場まで索道で運ばれていたことにヒントを得たといわれています。

木材を運搬するトラック

 戦後になると、加茂川の流送が昭和25年には姿を消し、写真のようにトラック輸送が主流となっていきました。

村上節太郎写真27 炭焼き

2008年12月9日

 ロビー展「森のめぐみ 木のものがたり」は、12月7日に閉幕予定でしたが、11日まで会期を延長しています。その後、12月20日からは新居浜市の総合科学博物館で展示されます。ぜひご覧ください。なお、今回のロビー展で展示している村上節太郎撮影の写真を紹介するこのシリーズは、しばらく延長します。

炭焼き 大洲市柳沢 昭和9年
炭焼き 大洲市柳沢 昭和9年

 肱川流域では、クヌギを原木とした木炭の生産が行われました。特に村上節太郎が撮影している柳沢地区(大洲市)は製炭業が盛んなところで、大正6(1917)年には製炭者83名、生産量5.8万貫、昭和35(1960)年には製炭戸数205戸、生産量20万貫というデータが残っています。

 肱川流域では、暖房や炊事に使う木炭を小さく裁断した切炭を多く生産しました。大阪から技術を導入して、阪神方面に盛んに出荷されるようになり、「伊予の切炭」として知られるようになりました。この地域の炭窯は小規模であるため、窯内の温度調節が容易にでき、収益性の高い切炭の生産に適していました。

 昭和30年代の後半に入ると化石燃料が普及していき、昭和40年代には炭焼きは急速に衰退していきました。昭和42年に書かれた中山小学校5年生の作文には、かつては木炭問屋、農協、内子の駅にも木炭が山と積まれていたものが、だんだんと電気製品、ガス、レンタン、豆炭などが出まわって、炭焼きをやめる人が増えていることが記されています。その作文から5年後、中学3年になった生徒は、木炭の生産が4分の1の1万箱に減り、炭焼きに使われていたクヌギの原木は、椎茸栽培に転用されていることを書き残しています。

特別展江戸考古紹介(36)ミニチュアおもちゃ

2008年12月7日

県民館跡地出土土人形
県民館跡地出土ミニチュア(愛媛県教育委員会蔵)

 松山城三之丸の武家屋敷跡から、土製や陶磁器製のミニチュア人形がたくさん見つかっています。
 犬や兎、狐、熊などの動物や、大黒、恵比寿、天神、虚無僧などの人物像があります。これらは民間信仰と結びついて作られたようです。なかには、犬猿の仲であるはずの犬と猿が抱き合っている人形もみられます。
 台所用品をそのまま小さくした、片口や土瓶などのおままごと道具や東屋や燈篭などの箱庭道具が見つかっています。ほかに鳩笛・型抜きなどのおもちゃも見られます。
今も変わらぬ、江戸の人たちの小さなものを愛でる心をうかがいしることができます。

 特別展「掘り出されたえひめの江戸時代」は本日で終了いたしますが、考古展示室で県民館跡地などから出土した土人形や化粧道具などを特集しますので、ぜひご来館ください。

特別展江戸考古紹介(35) 文字の書かれた土器

2008年12月6日

県民館跡地出土墨書土器
県民館跡地出土墨書土器皿(愛媛県教育委員会蔵)

 遺跡からは、文字の書かれたやきものが出土することがあります。
 書いてある文字がわからないものも多いのですが、松山城三之丸の武家屋敷から出土した土器には見込みに「やいと」と書いてあります。これは「お灸」のことです。この地方の方言で書かれていることが注目されます。武士たちがお灸に使った土器なのでしょうか?資料からは、堀之内の武士たちの日常生活を垣間見ることができます。

特別展江戸考古紹介(34) エコな生活

2008年12月5日

県民館跡地出土段重
県民館跡地出土染付段重蓋(愛媛県教育委員会蔵)

 現在、私たちは陶磁器が壊れた場合、ほとんど廃棄します。ところが、江戸時代の人々は割れた陶磁器は廃棄しないで、割れ口を接着して使用していたようです。
 写真は、茶色のつなぎ目にみえるのが「焼継」(やきつぎ)という技法で再生されたやきものです。江戸時代後期になると、白玉というガラス質の接着剤で割れた陶磁器を接着する「焼継師」という専用の職人が出現しました。焼継は、新製品を購入するよりも安価だったので、流行したとされています。松山城三之丸の武家屋敷跡からも焼継されたやきものが多数見つかっています。武士たちがものを大事にしていたことがうかがえます。

特別展江戸考古紹介(33) 武士の園芸趣味

2008年12月4日

県民館跡地出土植木鉢
県民館跡地出土染付植木鉢(愛媛県教育委員会蔵)

 江戸時代後期には、武士や町人の間で、松、菊、梅、朝顔などの植木や盆栽がさかんに行われていました。当初は、甕や壺の底部などに穴を開けて、植木鉢として使用していましたが、次第に底部に穴の開けられた、専用の植木鉢が作られるようになりました。
 宇和島藩江戸屋敷では、高級な色絵の香炉に穴を開けて植木鉢に転用したものも見つかっています。松山城の堀之内の武家屋敷から、瓦質や土師質土器のほかに、陶器や山水文などが描かれた磁器製の植木鉢も見つかっています。松山藩士たちの武家屋敷でもさまざまな植物が育てられていたことでしょう。