村上節太郎写真24 荷物を運ぶ

2008年10月13日

オイコを担ぐ人
オイコを担ぐ人 久万高原町笠方 昭和24年

 自動車やトラックが普及していない時代、人体が山で荷物を運ぶ最も優れた運搬具でした。長方形の木枠に負縄と、荷物を固定する張縄を付けたオイコ(背負梯子)を使うと、人力でも重い荷物を運ぶことができました。写真ではオイコの上部に藁製の籠が結びつけられ、足下には藁靴を履いています。

馬で荷物を運ぶ
馬で荷物を運ぶ 久万高原町(旧面河村) 昭和33年

 また、荷物を遠いところまで運んだり、重いものを一度に運ばなければならない時には馬や牛が使われました。写真では車も通れない細い山道を、馬の背に荷物をつけて運んでいます。面河では明治初め頃に、川之内から川上、横河原(いずれも東温市)、そして松山へと抜ける黒森街道が開通すると、馬の背を利用した物資の輸送が盛んになりました。戦後になってもしばらくの間、農家では自分の家の荷物を馬の背で運び、山仕事に使ったりもしていました。

村上節太郎写真23 三椏

2008年10月10日

花盛りの三椏
花ざかりの三椏 久万高原町明神 昭和33年

 和紙の原料には楮(こうぞ)と三椏(みつまた)がありますが、楮が集落付近の常畑の畦などで栽培されたのに対して、三椏は集落から遠く離れた日照に恵まれた土地で栽培されました。三椏には独特の臭気があるため獣害から強く、地形急峻な山岳地が最適地だったので、焼畑に導入されていきました。

 昭和に入っての焼畑の主力は現金収入となる三椏で、それまで人が入ったこともないような奥深い山まで切り開かれ、「宝の山」として三椏が栽培されました。村上節太郎が写真を撮影した昭和33年には愛媛県は全国の栽培面積の27パーセントを占めていました。

三椏の皮をはぐ女性
三椏の皮をはぐ女性 久万高原町笠方 昭和33年

 三椏の収穫期は、11月下旬から翌年の4月までの長期にわたりました。1メートル20センチから50センチくらいに伸びた三椏の枝を刈り取り、人間の背丈以上の大きな蒸し桶に入れて蒸すと、皮はぎの作業に移りました。一本一本はぎとられた皮が黒皮、これをさらに水にさらして柔らかくして荒皮をけずりとったものが白皮といいます。この黒皮をけずって白皮にするのは女性の仕事で、三椏の収穫が続く冬の間はほとんどそれにかかりきりになりました。また、子どもたちも小学3年生ぐらいになると、細い枝が割り当てられるなど、皮はぎは一家総出の作業でもありました。

 三椏の皮はぎは水が冷たくつらい作業でしたが、平坦地の米作農家よりも現金収入になりました。しかし、価格が停滞したことや、木材ブームもあって労力が植林にシフトしたこともあって、三椏は昭和38年頃から急速に衰退していきました。

村上節太郎写真22 トーキビとハッタイ粉

2008年10月9日

 焼畑では古くは痩せた土地でも育つヒエが作られていましたが、大正から昭和にかけてトーキビ(トウモロコシ)が一番多く作られるようになりました。水田の面積が少ない上浮穴地方では米は貴重品であり、日常的にはトーキビを米に混ぜて食べるトーキビ飯を食べました。トーキビ飯は、米粒大に粗く割ったトーキビの中に、米を1~2割程度を入れて炊いたもので、冷めると固くなり喉を通りにくかったといいます。

トーキビイナキ
トーキビイナキ 久万高原町明神 昭和10年

 秋になると農家では、トーキビを乾燥するためにイナキをつくり、そこに収穫を誇るかのように架けました。久万高原町や旧小田町(現内子町)では、写真のような光景がよく見られました。

 また、トーキビは粉に挽いてトーキビ団子をこしらえたり、煎ったものを粉に挽いてハッタイ粉にしたりもしました。ハッタイ粉は一種の保存食であり、子どものおやつ代わりにも食べられました。

ハッタイ粉を売る商店
ハッタイ粉を売る商店 久万高原町久万 昭和10年代

 写真は久万の町並みでハッタイ粉を売っていた商店を撮影したもので、久万名産の緑茶と椎茸を押しのけて、ハッタイ粉が堂々と看板の中央に記されています。トウモロコシが上浮穴地方では米のように日用品だったということが伝わってきます。

村上節太郎写真21 焼畑

2008年10月8日

 ロビー展「森のめぐみ 木のものがたり」では、愛媛大学地理学教授であった故村上節太郎が撮影した写真を展示しています。これまで村上節太郎写真をブログで紹介してきた連載の続きとして、展示している写真の一部を紹介していきます。

 焼畑とは樹木を切り倒して一面に広げ、その乾いたところに火を入れて全面に焼きつくし、その跡に残る草木灰(そうもくばい)を肥料として作物を作る農法をいいます。数年間で地力が衰え、新たな山に移動しなければならないので、移動農業ともいわれています。

 昭和10年代には、全国の焼畑面積のうち約46パーセントを四国山間部が占めていましたが、とりわけ愛媛県から高知県の山岳部は全国有数の焼畑耕作地帯でした。焼畑の呼称は地域により様々でしたが、四国山地では「切畑」あるいは「切替畑」と呼ばれました。

焼畑
焼畑 久万高原町(旧面河村) 昭和9年

 焼畑は火入れの時期により、春焼き・夏焼き・秋焼きがあったが、いずれも火入れの前には樹木を伐採する作業がありました。火入れに先立って、防火のために幅2m程度の火道(防火線)を切り、当日は山の神に安全と豊作を祈ってから、慎重に火入れ作業を行いました。焼畑で作られる作物の代表的なものは、主食であったトーキビ(トウモロコシ)でした。また、良質な和紙の原料になる三椏(みつまた)も栽培され、この地域の大きな収入源となっていました。

山小屋と焼畑
山小屋と焼畑 久万高原町(旧面河村) 昭和20年

 焼畑は谷底や低い土地の緩斜面にある水田や常畑の周辺にあり、遠く離れた焼畑へ通うのに、耕作の便を考えて焼畑の小屋がつくられました。村上節太郎は小屋も撮影しており、農繁期には高知県側からも小屋に泊まりに来て、焼畑をする人が見られたと記しています。

 昭和30年代から杉の植林が盛んになり、山村の食生活にも米飯が取り入れられると、焼畑は次第に面積を狭められていきました。昭和37,8年頃を最後に、焼畑はほとんど行われなくなりました。

特別展「掘り出されたえひめの江戸時代」が開幕しました。

2008年10月4日

掘り出されたえひめの江戸時代

特別展「掘り出されたえひめの江戸時代~くらし百花繚乱~」は、本日開幕しました。
観覧料は以下のとおりです。
■特別展
大人  500円(400円)
小・中学生  250円(200円)
■常設・特別展共通
大人  700円(600円)
※(  )内は20名以上の団体料金になります。
※65歳以上の方は常設・特別展ともに無料です。
※小・中学生は常設展は無料です。

職員一同、みなさまのご来館を心よりお待ちしております。

E~もりくんがやってきた

2008年10月2日

 10月4日(土)からはじまる「森のめぐみ木のものがたり展」の列品作業が大詰めを迎えている本日、E~もりくんが激励にやってきました。

 E~もりくんとは、10月25日、26日に行われる第32回全国育樹祭愛媛県大会のキャラクターです。えひめの森を吹き抜けるさわやかな風、その風に髪をなびかせ森を育む愛媛の子供たちを表現するため、EHIMEの「E」の文字をモチーフに、明るく元気に森を守りそだてる愛媛の子どもをイメージしてデザイン化されました。
 このE~もりくん。歴史文化博物館には「森のめぐみ木のものがたり展」開催初日の10月4日(土)と開館記念イベントが行われる11月16日(日)に登場する予定ですので、ぜひご家族そろってお越し下さい。来館してくれた子どもたちには、E~もりくんからささやかなプレゼントがあるかもよ…?

「森のめぐみ 木のものがたり展」も、列品中です

2008年9月30日

 特別展の「掘り出されたえひめの江戸時代」と同時開催される、「森のめぐみ 木のものがたり展」も列品がはじまりました。会場はエントランスホールで、巨大年輪標本などは既に設置済み。プレ展示として一部の資料はもう御覧いただけます。

 「森と人とのつながり」を紹介する古写真の展示も始まりました。県立博物館で展示した時よりもかなり増量して、79枚の写真を展示します。

写真展示中

 現在は、解説文を作成中です。完全な展示に仕上がるまで、あともうわずかです。

「掘り出されたえひめの江戸時代」、列品中です

2008年9月29日

考古資料列品中

 特別展の「掘り出されたえひめの江戸時代」も開幕が近づいてきました。展示ケースの配置も終わり、いよいよ列品作業が始まりました。借用してきた資料の梱包をほどき、次々に資料を展示していきます。今回は細かい資料も多いので、一つのケースに資料を満たすのに、なかなか時間がかかります。それでも宇和島藩江戸屋敷の出土遺物はほぼ並べ終わりました。

絵図の展示

 絵図の展示も始まりました。大型の絵図専用の展示台に松山城下町の絵図が列品していきます。松山城下町絵図は、企画展示室と考古展示室に展示されますが、これほどまとまった数が展示されるのは今回が初めてです。

 まだ、全体の2~3割程度。まだまだ気の抜けない作業が続きます。

南予の中世城跡探訪23 御荘氏の配下尾崎氏も在番 ―新城跡―

2008年9月28日

 今回の史跡は、所在地は高知県ですが、南予も深く関係した場所ということで紹介します。愛南町から国道56号線を通り、県境を越えると宿毛市に入ります。山間を抜け市街地が広がる松田川河口部に出ると、北部の山並みには河口部から宿毛湾までも北から一望するように新城山がそびえます。眺望がよいと見えて、各種電波塔も建てられています。そこには、戦国時代末期、土佐一条氏の滅亡に関わる、そして南予御荘地域の領主も関与した新城がありました。


  新城跡

 天正3(1575)年、すでに土佐を追放され豊後大友氏を頼っていた一条兼定は、再起を図って帰国します。その際、すでに土佐をほぼ手中に収めていた長宗我部氏と渡川(四万十川)を挟んで合戦となりました。しかし一条兼定は敗北し、その勢いに乗じた長宗我部勢はさらに西進して宿毛方面へ追撃をしかけます。この時、南予の御荘氏勢力も一条方に味方したようで、配下の尾崎氏が予土国境に位置するこの新城を守っていたといわれています。そこへも戦火が及んだため尾崎氏は長宗我部勢を迎え撃つこととなったようです。
 その時の恩賞として褒美が近々与えられる旨を伝えた一条氏家臣の古文書などが今に伝わっています。しかし、この後土佐は長宗我部氏が統一支配するところとなったため、こうした一条氏の恩賞給付や地域支配は効力を持たなくなり、一条氏の求心力が急速に消滅に向かったことは言うまでもありません。

南予の中世城跡探訪22 伊予最南の領主御荘氏の本拠 ―常盤城跡―

2008年9月19日

 愛媛県の最南には現在愛南町が所在します。市町村合併により、役場が旧城辺町に置かれました。その役場の南に見える丘、これは城辺の商店街にも面し、登り口に諏訪神社の鳥居が立ちますが、ここは実は中世の城郭、常盤(ときわ)城の跡です。


  常盤城跡

 常盤城は、戦国時代にこの地域を支配した御荘氏の本拠です。合併前の旧町時代、城辺町の西隣は御荘町であり、西面する長く深い入り江を御荘湾と呼びますが、そうした御荘の名は中世にまさに御荘と呼ばれる荘園がこの地域にあったことに由来します。京都の青蓮院門跡領の荘園で観自在寺荘とも称しました。ここで現地支配にあたりながら、次第に領主化していった一族が御荘氏で、戦国時代には地理的に近い中村を本拠とする土佐一条氏の家司の一族が名籍を継いでいるようです。そのこともあってか、当地の勢力は土佐一条氏といろいろとつながりを持っていたようです。
 細長く入り込んだ御荘湾の奥、僧都川河口に出来た平野の中央に位置しますが、おそらく中世には海岸線はもっと内側であったはずで、当時の常盤城は僧都川河口にほど近い独立丘陵だったと推察されます。


  主郭部分

 現在、城跡は諏訪神社の境内になっていて、全体的に後世の改変が加えられてはいますが、残った遺構からもある程度概観は捉えることができます。頂上部の主郭部には広い削平面があり、諏訪神社社殿が建っています。西には大きな横堀を挟んで曲輪2があり、周囲には帯曲輪もあります。さらに西には曲輪3が広がります。


  曲輪2

 愛南町役場を訪れた際、城辺の商店街を通る際、また諏訪神社参詣の際には、かつて当地を領した御荘氏ゆかりの史跡にも、ちょっとばかり目を向けてみてはいかがでしょう。