愛媛の昔話・伝説(1)「日本は三倍広い」

2008年8月3日

(愛媛県歴史文化博物館では、常設展示室にて「愛媛の民話」を紹介するビデオコーナーを設けています。このブログでは、常設展示で紹介している民話(昔話・伝説)以外にも、愛媛に伝わる昔話・伝説などの口頭伝承を紹介したいと思います。)


※笠置峠から見た宇和の風景

まだ自動車道路がない頃の話。

前は宇和海、後ろを山に囲まれた港町・八幡浜の親子が、山側の米どころ宇和盆地にある山田薬師・花祭りに行こうとして、笠置峠を登った。

花祭りでは甘酒も振舞われて、近郷近在、多くの参詣者が歩いて集まってくる。

父親は何度か行ったことがあるが、息子は花祭りが初めてで、甘茶が飲めると聞いて、とても楽しみにしていた。

峠の頂に着いた瞬間、宇和盆地の景色が目の前一面に広がった。

平地の少ない八幡浜で育った息子は「とっと、宇和はがいに広いなあ。たまげた、たまげた。」と素直に驚く。

そこで父親は真面目に答える。「坊よ。たまげたらいけん。宇和もこんだけ広いけど、日本はなあ、この三倍も大きいがやけん、よう覚えとけよ。」

息子ばかりか父親も「井の中の蛙、大海を知らず」。ただ、息子は父親の言葉を真に受けて、少しは「世間」というものを知って、ひとつ大人に近づいたような気持ちになったとさ。

※文章は、当館が平成9年に八幡浜市向灘(むかいなだ)地区で聞き取りした話をもとに再構成しています。

体験! 兵士の衣食住

2008年8月2日

 8月に入り、特別展「愛媛と戦争」もいよいよ中盤。今日は兵士の生活を知るための体験イベントを開催しました。名付けて「体験! 兵士の衣食住」。戦争に召集された兵士は、どんな服を着て、どんな生活をしたのか?そんな素朴な疑問に答えようというものです。
 今回は14人の参加者にさまざまな体験をしていただきました。まず、当時の兵士たちが足に巻いたゲートルを巻いてみます。歩いても緩まないようにゲートルを巻くには、ちょっとしたこつがいります。ボランティアさんの手助けもあり、みんな上手にゲートルが巻けました。
テントは、マントとしても使います。

 次は1メートル50センチ四方の布を使って、体を休める一人用のテントを組み立てます。どうすれば小さな布で大人一人が寝るテントがたつのか、いろいろやってみます。こんな狭い空間で寝ていたなんて、ちょっと驚きます。
テントをたててみよう

 最後はテントに入って、非常食だった固パンを試食します。この固パンは日露戦争時、第11師団に納めていた菓子店が現在もつくっているもので、味付けは現代風になっていますが、当時の兵士が食べたものに近いものといえます。歯が折れるくらいの堅さを味わってもらいましたが、素朴な味付けで子どもたちにも好評でした。
固パン、おいしい?

 「体験! 兵士の衣食住」は今後、8月23日(土)と8月30日(土)の午後2時から実施します。夏休みの思い出のため、夏休みの自由研究に、ぜひご参加ください。

南予の中世城跡探訪17 城川西部、魚成氏関連史跡 ―龍ケ森城跡周辺―

2008年8月1日

 西予市城川町の西部に魚成(うおなし)という地区があります。東西に伸びる谷に魚成川が東流し、南岸にはなだらかな段丘上に田園風景が広がります。一方、北岸は急斜面の山脈が横たわり、険しい様相を見せています。その北の山脈を越えると同市野村町の阿下(あげ)地区に入りますが、その旧町境の尾根上、南に魚成、北に阿下を望む高みに中世の山城、龍ケ森城跡があります。


  龍ケ森城跡

 龍ケ森城は、中世にこの魚成地域を支配した魚成氏の城です。一見すると、魚成の谷筋の北辺に位置する龍ケ森城は、支配の面で不自然な感じを受けるかもしれません。しかし、近世の地誌「宇和旧記」の記述では、魚成氏は魚成地域のほかに阿下地域の前石・釜川を知行したと伝え、さらに野村盆地を越えて西へ進んだ四郎谷の三嶋神社には、魚成氏が文明3(1471)年に大檀那になって社殿を再建した際の棟札が残っています。龍ケ森城の周辺には、魚成と阿下を結ぶ峠道も何本か通っており、南の魚成だけでなく、北から西にかけて広がる野村盆地も見据えた城であった様子がうかがえます。
 龍ケ森城のほぼ真南の方角には深い谷が南へ切れ込んでおり、その奥には古刹龍澤寺があります。現在は周囲が龍澤寺緑地公園とされ、「森林浴の森日本百選」に選ばれるなどして親しまれていますが、実は鎌倉末期に開創と伝わる曹洞宗総持寺派の中本山の名刹です。開創時は、現在地よりさらに南へ山を登った頂上付近の御開山(おかいさん)に建立され、龍天寺と称していました。室町時代に現在地に移り、寺号も龍澤寺に変わりました。ここにはかつて、中世の魚成氏や魚成地域の様子を伝える「龍澤寺文書」が伝来していましたが、現在では残念ながら所在不明となっています。


  龍澤寺

 また、龍澤寺からから少し北へ出た段丘上の高台、谷越しで北方の尾根に龍ケ森城がよく望める場所には顕手院があります。ここは、寺伝によれば享徳元(1452)年のこと、魚成氏が龍澤寺から星文和尚を開山として招き開創した魚成氏の菩提寺です。ここには、魚成氏の活動を今に伝える貴重な資料「顕手院文書」(県指定有形文化財)が伝存しています。


  顕手院

「昔のくらし探検隊 海外からも入隊できます」

2008年7月31日

愛媛県歴史文化博物館では、学習支援プログラムの一つとして「昔のくらし探検」というプログラムをご用意しています。
昭和の民家を復元した展示室を舞台に、昔の家や道具を実際に見て、触って、昔のくらしを身近に考えてもらうプログラムです。

今回の探検隊は、なんと外国からの入隊希望者です。香港大学で日本語を学ぶ生徒さん27名が、7月30日に「昔のくらし探検隊」として展示室を探検しました。3つの隊にわかれ、それぞれボランティアさんがつとめる隊長といっしょに、「海のいえ」「里のいえ」「山のいえ」を探検します。

実は今回、プログラムの申込があってから、隊長のお一人がすばらしいアイデアを思いつきました。「中国も日本も同じ漢字を使うのであれば、なにか通じるところがあるかも」といって作ってきてくださったのがこれです。

探検隊でおすすめのキーワードをB4サイズの画用紙に六枚、書いてきてくださったのです。今回はこの秘密兵器を携えて、探検隊スタートです。

蓑(みの)や和傘などは香港でもあるそうですが、せっかくなので記念写真を撮る方も。

秘密兵器の「キーワード画用紙」を見てもらいながら、隊長が説明をすると「ああ~」と納得のため息がもれたり、中国語で発音してもらうことも。
 また、中国の丸いまな板と日本の四角いまな板の違いや、食事の仕方、眠り方になど、日本と中国の文化の違いについて会話が広がります。
 せっかくなので、探検の先頭に立ってくれた隊長さんたちを記念写真。

 皆さんは日本に11日間滞在して、日本語の勉強や文化視察をされるそうです。「昔のくらし探検」が少しでもお役に立てればうれしいです。
 このように、「昔のくらし探検隊」に入隊するには年齢も国籍も関係ありません。(日本語がおわかりになれば)いつでも入隊お待ちしております。

日本の文様―文様になった生きもの達―(18)松

2008年7月30日

(18)松 -変わることのない緑-
 

 松竹梅「歳寒三友(さいかんさんゆう)」と言われ、寒く厳しい冬の間にも凛としたたたずまいが、人の生き方の理想に重ねられてきました。松は常緑であるため不死の象徴、また神聖、清浄な植物とされます。

染型紙 松 大西金七染物店蔵(四国中央市川之江町)
 染型紙 松 大西金七染物店蔵(四国中央市川之江町)

 松の文様は、松林や樹木全体、枝ぶりなど様々に意匠化されていますが、型紙では、松葉の形にスポットが当たっています。この型紙も「近くで見なければわからない型紙シリーズ」ですね。

 こちらのデザインは、すべて点で構成されています。「錐彫り」で彫られたこの型紙、出来上がるまでの工程を想像すると、気が遠くなりそうです。

日本の文様―文様になった生きもの達―(17)蝙蝠

2008年7月29日

(17)蝙蝠(こうもり) -福を招く-

染型紙 蝙蝠 個人蔵(西宇和郡伊方町)

染型紙 蝙蝠 個人蔵(西宇和郡伊方町)

 夕闇を不気味に飛び交う蝙蝠。しかし、中国では「蝠」「福」が同じ発音であることから福を呼ぶ動物として、文様に用いられました。
 この型紙のように格子と組み合わされるバリエーションもよく見られます。図中の蝙蝠は、なんともとぼけた、味わいのある顔にデザインされています。

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日本の文様―文様になった生き物たちー(16)菖蒲

2008年7月27日

(16)菖蒲(しょうぶ)―勝負に勝つ!- 

染型紙 菖蒲 個人蔵(西宇和郡伊方町)

染型紙 菖蒲 個人蔵(西宇和郡伊方町)

 勝負(しょうぶ)と同じ音であり、凛とした姿もあいまって武士に好まれました。鎧などの武具にもそのモチーフは見られます。

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 また、端午の節句で用いられるように、邪気を払う植物としても考えられています。

南予の中世城跡探訪16 城川東部、北之川氏の本拠 ―甲ケ森城跡・三瀧城跡―

2008年7月26日

 西予市城川町、総合支所などが所在する下相(おりあい)地区からさらに東へ尾根を一つ越えた所に、土居・窪野地区があります。三滝川に沿った細長い谷筋で、川の上流はもはや高知県との境の山脈、まさに予土国境地域といえます。やや下流の少し開けた所が土居、上流の谷が狭まった所が窪野で、土居に甲ケ森(かぶとがもり)城跡、窪野に三瀧城跡があります。
 両城ともに、中世にこの地域を支配した北之川氏の城とされています。甲ケ森城は土居の集落を西から見下ろす小高い甲ケ森山頂を利用した城、一方の三瀧城は奥まった谷に面した比高約250mもの険しい三滝山山頂を利用した城です。


  甲ケ森城跡


  三瀧城跡

 北之川氏については、当時の信頼できる資料が皆無に等しく、その詳しい確かな動向はほとんどつかめないのが実情です。伝わるところでは、北之川氏は当初は土居に本拠を据えていましたが、戦国末期に天然の要害ともいえる三瀧城に本拠を移したともいわれています。しかしながら、「土居」の地名が館跡などを示す言葉でもあり、土居の方が土地が開け、また下流域にも出やすく地域支配には適した場所であること、一方の三瀧城は谷の奥深くに位置し、険しい山の山頂という立地であることなどから考慮して、もしかすると本来は地域支配の安定・拡大を図ってより開けた土居地域を本拠としながらも、三瀧城を予土国境の峠を睨む重要拠点として、また或いは土居を攻められた時の詰めの城として、同時並行的に重視したと理解する方が自然なのではないかと思いますが、残念ながら実際のところは定かではありません。
 これも伝承ながら、北之川氏は戦国末期(年代は諸説あり)に、土佐長宗我部氏に攻められて没落したといいます。その時に、甲ケ森城も落城したといいますが、それに直接関係するかどうかは分からないものの、甲ケ森城跡からは古銭が熱で溶けて固まった状態のものが発見されています。
 この溶けた古銭ほか、旧城川町域の歴史や文化を物語る資料は、下相地区の城川総合支所の裏にある、西予市城川歴史民俗資料館に展示されていますので、足を運んでみてはいかがでしょう。

日本の文様―文様になった生きもの達―(15)雁

2008年7月25日

(15)雁(かり) -秋の渡り鳥-

染型紙 雁 個人蔵(西宇和郡伊方町)

染型紙 雁 個人蔵(西宇和郡伊方町)

 秋になると訪れ、春になると北へ去っていく雁は季節を表わす渡り鳥。雁そのものの形の面白さに加えて、この型紙のように斜めに連なって飛ぶ様子も文様として愛され、「雁行(かりゆき)」と呼ばれています。また葦(あし)との組み合わせも秋の風物詩として好まれています。

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日本の文様―文様になった生きもの達―(14)とんぼ

2008年7月23日

(14)とんぼ -勝つために-

染型紙 蜻蛉 大西金七染物店(四国中央市川之江)

染型紙 蜻蛉(とんぼ) 大西金七染物店蔵(四国中央市川之江町)

 「近くで見なければわからない型紙シリーズ第四弾」です。こちらの型紙もうんと間近で見なければ、何の文様かわかりません。

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 型紙を拡大すると、とんぼの姿がよくわかります。とんぼの羽と胴体の部分は「道具彫」で彫られています。道具彫は、この型紙のように楕円形や三角、花弁や分銅の形の刀を製作することからはじまります。様々な形の刀を用い、一息に彫りぬき、その形を組み合わせて文様を構成するのです。
 とんぼは別名「勝虫」とも呼ばれ、その縁起のよい名称から武士に好まれ、武具の文様にも取りあげられました。
 夏の訪れとともに現れ、秋の深まりのなかで姿を消すとんぼは、季節の変わり目を象徴する文様としても、きものにデザインされています。