ロビー展「森のめぐみ 木のものがたり」では、愛媛大学地理学教授であった故村上節太郎が撮影した写真を展示しています。これまで村上節太郎写真をブログで紹介してきた連載の続きとして、展示している写真の一部を紹介していきます。
焼畑とは樹木を切り倒して一面に広げ、その乾いたところに火を入れて全面に焼きつくし、その跡に残る草木灰(そうもくばい)を肥料として作物を作る農法をいいます。数年間で地力が衰え、新たな山に移動しなければならないので、移動農業ともいわれています。
昭和10年代には、全国の焼畑面積のうち約46パーセントを四国山間部が占めていましたが、とりわけ愛媛県から高知県の山岳部は全国有数の焼畑耕作地帯でした。焼畑の呼称は地域により様々でしたが、四国山地では「切畑」あるいは「切替畑」と呼ばれました。

焼畑 久万高原町(旧面河村) 昭和9年
焼畑は火入れの時期により、春焼き・夏焼き・秋焼きがあったが、いずれも火入れの前には樹木を伐採する作業がありました。火入れに先立って、防火のために幅2m程度の火道(防火線)を切り、当日は山の神に安全と豊作を祈ってから、慎重に火入れ作業を行いました。焼畑で作られる作物の代表的なものは、主食であったトーキビ(トウモロコシ)でした。また、良質な和紙の原料になる三椏(みつまた)も栽培され、この地域の大きな収入源となっていました。

山小屋と焼畑 久万高原町(旧面河村) 昭和20年
焼畑は谷底や低い土地の緩斜面にある水田や常畑の周辺にあり、遠く離れた焼畑へ通うのに、耕作の便を考えて焼畑の小屋がつくられました。村上節太郎は小屋も撮影しており、農繁期には高知県側からも小屋に泊まりに来て、焼畑をする人が見られたと記しています。
昭和30年代から杉の植林が盛んになり、山村の食生活にも米飯が取り入れられると、焼畑は次第に面積を狭められていきました。昭和37,8年頃を最後に、焼畑はほとんど行われなくなりました。