調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第30回
2018.9.25

近代都市への過程示す

宇和島観光案内

1935年ごろに製作された鳥瞰図「宇和島観光案内」
拡大図。須賀川の左側に和霊神社、右に港や花街などが記されている。
 今回紹介するのは、1935年ごろに宇和島観光協会が発行した鳥瞰(ちょうかん)図「宇和島観光案内」である。表紙のサイズから、三つ折り仕様であったと思われる。外面には表紙と交通案内が記載され、内面に鳥瞰図が描かれている。そのコンパクトさにかわいらしさを感じるだけでなく、黄・緑・青の淡い色使いと線の細さに柔らかさや温かさを感じる。
 宇和島は、松山・今治に次いで21年に市制を施行した。平地が少ない宇和島は、江戸時代から埋め立てが進み、城山を囲んでいた堀も、10年に内港として改修された一部を除いて、明治末~大正時代に埋め立てられ市街地となった。25年、内港近くの公会堂横に市役所が新築された。始めは煉瓦(れんが)造りの予定だったが、関東大震災を受け、鉄筋コンクリート造りに変更された。
 市制当初の課題は、大量の土砂が堆積する須賀川の付け替えだった。そこで、21~26年に港湾を浚渫(しゅんせつ)、その土砂で弁天町・寿町などを埋め立てた。そして、29~33年に須賀川の流れを和霊神社の前で変え、住吉山北部に流した。33年から新内港の工事が始まり、浚渫土砂で築地などを埋め立てた。築地には北新町の花街が一部移転し、花街が形成された。
 鳥瞰図に描かれている鉄道は旧宇和島鉄道で、33年に国鉄に移管された。予讃線の延伸が遅かったため、宇和島では海上交通が発達した。35年時点では、新内港から別府・八幡浜行、樺崎港から阪神・高浜行、関門・別府行、細島行、宿毛行が出ていた。また、樺崎港から元結掛まで市内バスが走っていた。船で訪れた観光客はバスに乗り換え、鳥瞰図に記載された国宝宇和島城、伊能忠敬・髙野長英・大村益次郎などの宿泊地や居住地を訪れたものと思われる。
 宇和島は、浚渫と埋め立て、須賀川の付け替えにより、市街地を拡張した。それはさらに人口を増加させ、宇和島を南予の中心都市へと発展させていった。この鳥瞰図は、平地の広がる松山や今治とは異なる近代都市への過程を示している。

(専門学芸員 平井 誠)

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